「認識」と「行動」の一致④

こんにちは。学生団体CORS Projectの小島です。
代表を引退してから初めての投稿になります。

前回のブログ「『認識』と『行動』の一致」シリーズですが、大変多くの方に読んでいただいているみたいです。本当に光栄で、私の問題提起によって何らかの議論が生まれれば、これより嬉しいことはありません。
さて、私の投稿ですが、どういう観点からの問題提起であったのかに関する詳細を明らかにする必要があると思いました。実は、私の大学での専攻、課外活動で行っている独自研究で得た知見が大きく影響しているからです。以下にその詳細をできるだけ平易な表現で記載しました。これらをご覧いただくことで、コロナ禍における情報処理のヒントになると思います。

https://pando.life/corsstudentproject/article/36192
(これまでの「『認識』と『行動』の一致」シリーズは、こちらからご覧ください。)

「認識」と「行動」の一致~代表引退にあたって~②

小島 瑶平
学生団体CORS Project

 

憲法学と法政策・公共政策の考え方
現在、大学では法学部の憲法ゼミに在籍しています。主に、憲法13条の「個人の尊重」「幸福追求権」の分野を独自に研究しています。今年度までに、ハンセン病問題や出生前診断、旧優生保護法下の不妊手術について発表を行いました。
そして、昨年度は通年で法政策論を履修しました。その授業において、法政策・公共政策の組み立てのイロハを習得し、その後も独自に法政策・公共政策のあり方を時事に当てはめて研究しています。
先のブログの論考で一番重視したのは、この法政策・公共政策の考え方です。法政策・公共政策を考えるうえでは、①客観的なデータに基づいた政策決定②資源の適正な配分③政策の順位付け④公共的諸価値の対立の考慮の4点が重要です。

以上を前提として、憲法学と法政策・公共政策をコロナ禍に当てはめてみてみましょう。
まず、憲法学の観点からは、権利というのは制約されないのが原則です。ですから、今は「自粛」するのが原則みたいになっていますが、決してそれは正しくなく、あくまで一時的な状況だということを理解する必要があります。
そして、制約するにはそれ相応の納得できる理由づけが必要になります。制約されないのが原則であるわけですから、当然ですね。また、理由づけについては、やはり客観的な証拠に基づいて示す必要があるでしょう。主観的で感情的な理由づけで制約を許すならば、もはや独裁国家の容認になってしまうからです。
また、法政策・公共政策の観点からは、コロナ禍で特に①がないがしろにされているような気がしています。客観的なデータに基づかない決定が、あらゆる局面で繰り返されたのは、法政策・公共政策のイロハが十分に浸透していないことによるものだと思います。また、法政策・公共政策に限らず、多くの人に納得してもらうという意味では、大学の措置などについてもこの4点は要求されるものと私は考えます。特に、私が所属する大学については、小さな自治体よりも所属人数や予算が多いわけですから、「私立」であるといえども法政策・公共政策と同様に、納得できる説明が求められるはずです。そんなことを言わなくても、客観的な証拠に基づいて説得力のある説明をすべきであることは、どこの団体でも共通しているのではないでしょうか。その点からも、①が欠けていたことなどから、大学の今回の対応は非難されるべきでしょう。

ハンセン病問題と「医療的合理性」
また、課外活動として、「日本の偏見と差別のルーツ」と言われるハンセン病問題の取材・研究を行っています。憲法ゼミでは、この活動で得た知見を憲法学に落とし込んで研究しています。
ハンセン病強制隔離政策においては、科学的合理性もないままに「恐ろしい伝染病」との恐怖を国があおり、国民がそれに迎合。ハンセン病患者を自分の住む地域から追放し、療養所に送り込むために官民一体となって、患者を差別してしまいました。回復者の方々のお話では、私には抱えきれないほどの酷い体験をお聞きすることになります。そうしたこの国の「過ち」を知ることで、この悲劇を絶対に繰り返してはならないのだと強く思うようになりました。今回の問題提起のきっかけとしては、ハンセン病問題を学んでいたことが非常に大きいです。
先のブログにも書いたとおり、「力」に流され、単純でセンセーショナルな言葉によって自分で考えることを放棄し、多くの人生を奪ってしまったという歴史。それがハンセン病問題です。この事実を、「自分は科学的には誤っていたということを知らなかった」「私には責任がない」などと開き直ることは許されません。問題を単純化せず、様々なデータをもとに自分の頭で考えてみる。それが、悲劇を生まないために重要なことです。
そして、強制隔離政策に関する文書を大量に読み込んできたこともあり、「医療的合理性」のみによる政策決定を批判的に読み解く必要性を感じています。ハンセン病問題においては、日本の「ハンセン病の権威」が放った言葉によって、合理性が認められなくなってからも強制隔離政策は継続しました。その歴史に学び、医療者ではなくても、できる限り自分で情報を集め、合理性ある政策決定が行われているかを批判的に見つめる必要があると思っています。
さらに、ハンセン病も感染症であるため、感染症についての基本的な知識は勉強してきました。コロナ禍では、その感染症についての知識を前提に、日々更新される様々なデータを自分なりに読み解いています。

 

あの戦争から学ぶべきこと
最近は、猪瀬直樹「昭和16年夏の敗戦」中公文庫(中央公論新社、2017年)、戸部良一他「失敗の本質」中公文庫(中央公論新社、2020年)などを読み、日本がなぜあの勝ち目のない戦争をしたのかについても勉強しています。特に、「昭和16年夏の敗戦」は、今こそ我々が読むべき本だと思っています。「データ」ではなく「空気」で物事を決めてしまったがゆえに、何百万もの尊い命が犠牲になってしまったことがよくわかります。コロナ禍の日本がそうなっていないでしょうか。果たして我々はあの戦争から何を学んできたのでしょうか。残念ながら、この過去を生かせているとは到底いえない状況にあると私は思います。
特に、各大学のメッセージや通知を見ていた私からすれば、メッセージや通知に重症化率や致死率など、最低限盛り込むべき具体的なデータがほとんど入っていません。措置を執るにはそれ相応の客観的な証拠が必要だというのは、上記の①とも重なる話です。「空気」や「可能性」ではなく、科学的客観的データによって我々を説得していただきたいと思います。

以上、私は法政策・公共政策、人権、医療的政策決定、感染症について研究を重ねてきた自負があり、先のブログを書いた次第です。一介の学生ではありますが、これまでの活動で得た知見からの問題提起が必要であると判断しました。
これから先、データはどういう経過をたどるかはわかりませんが、ぜひとも柔軟で説得力ある決定が積み重ねられることを切に願います。

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