【2020年8月6日】
暑い夏の日。
今日もいつもと変わらず、カーテンから溢れる太陽の光で目を覚まし、敷き布団の周りを叩いて見えないメガネを探す朝を送る。
そんな当たり前の朝がいつもと違った。
窓を通して私の部屋に聞こえてくる黙祷の声。
そうか、今日は広島に原爆が落ちた日か。
こんな暑い日に原爆が投下されたなんて
さぞ大変だったんだろうな...
なんて思っていつものようにTwitterを開いた。
「え... なにこれ...」
目に入ってきたのは、
1945年の今日のツイート。
あ、そっか... 昨日何となくフォローしたんだっけ。
昨日の夜、Twitterのトレンドに上がっていた
#ひろしまタイムライン
内容は、NHK広島の企画で、75年前の日記をもとに
日付をあわせてツイートしているというものだ。
タイムラインには、
だったり
という何とも私まで元気を貰えるような内容だった。
「あ〜私もこんな素敵な一日を過ごしたいな」
なんて思ったりして「いいね」を送った。
8月6日
タイムラインをスクロールしていくと
その余りにも恐ろしい内容に
頭が真っ白になった。
言葉が出なかった。
つい最近Twitterで出会ったやすこさんは、
私にとって無関係の人ではなかった。
そんなやすこさんのために私は何もできなかった。
身近で苦しんでいる人を黙って見ているだけだった。
苦しい。悲しい。自分の無力さに涙が零れた。
Twitterは、今日あったことや思ったこと、今日食べたものとか今日の愚痴を気軽に呟くことができ、「分かる〜」とか「そういうこともあるよね...」とか「応援してるよ!」なんていう気持ちでハートのボタンを押したり、「みんな見て~」と拡散したりする。
Twitterのキーワードは「共感と身近さ」
1945年のそのツイートは、生きる時間軸は違えど
他人事とは思えなかった。
高校の修学旅行の時に、私は広島の原爆ドームに訪れた。
空は透き通った青空だったのに、
何故か空気はどんよりと梅雨の曇り空のような空気が
漂っていたのを今でも覚えている。
時々私は、“見たくないもの”を目に入れないようにする癖がある。
「知らなくてもいいことは知らなくてもいい。」
「知らないことで幸せになれることがあるんだよ。」
そんなふうに私は自分に言い聞かせてきた。
でも、やすこさんのツイートを見て、
「見ないで生きることが幸せに繋がることではない。」
ということに気づいた。
生々しいツイートを見て、
何度もフォローを外そうとした私は、
そう自分に言い聞かせてフォローを外す指を止めた。
知らないことは幸せなことなのかもしれない。
でも、その幸せは明日も続くものだと言いきれるのか。
私が生きている世界には
ないものなのかもしれないけれど、
すぐ隣の世界では知らないだけで
何かに苦しんでいるのかもしれない。
「知ったからって何かできるっていう訳じゃない」
そう私は自分に訴えるだろう。
そんな無力な私にできること。
それは「忘れないこと。」
私が生きている世界が全てだと思わないこと。
暑い夏の日に「今日も暑いな〜」と
当たり前に言えることが、当たり前だと思わないこと。
もう世界を閉ざすのは辞めよう。
“見える”世界は、恐ろしく、私の心を粉々にしていくものかもしれない。
それでも私は“見えないもの”を“見ない”まま、
笑顔で前を歩いていけますか。
さぁ、踏み出せ。“見えない”世界に...
【××××年×月×日】