「支援」のはずが無責任?

こんにちは!Michiiii11期渉外局の佐藤美鈴です!!

今日は「支援」が持つもう1つの側面についてお話します。

私たちはどうしたらグラフィスの子供たちによりよい教育のための環境やシステムを提供できるのか、日々考えながら活動しています。これまでにも衛生、本管理教育に加え教室増設などの支援を行ってきました。

しかし、この支援は一歩間違えれば「無責任」かつ「一方的」支援へと変化してしまうのです。

例えば、現地の教育の質をより高めるために日本で進んでいるタブレット授業を提供しようと考えたとします。長年お金をためてやっとタブレットを提供出来ました。ずっと計画していたタブレット授業の実施が達成できる環境が整ったところで私たちの仕事は終わりです。最新のタブレット授業はきっと子供たちの教育の質向上に役立つでしょう。将来が楽しみですね。

ところがどうでしょう。何年か後に訪れてみるとあらびっくり。せっかくあげたはずのタブレットが倉庫の片隅に放置されています。現地の人に聞いてみましょう。

「こんなにも最新の機器を提供したのにどうしてこんなところに放置されているんですか?!」

きっと現地の人は声答えるでしょう。

「使い方が分からない。」

そうです。支援というのは提供することを指すのではないのです。どのように使うのか。なぜこれを提供したのか。これを使うとどうなるのか。そこまで考えて提供した後のことまで考えて行うことこそが支援であると私は考えます。

一方的に提供するだけの物資支援支援ではありません。ただの無責任なプレゼントです。

私たちの支援は一歩間違えれば無責任なプレゼントになってしまう。そのことを忘れずに私たちは支援をというものを常に考えていかなければならないのかも知れません。

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