知と毒

すべての思想は,損なわれた感情から生まれる。 E・M・シオラン

群がって埋もれるなら,そこに私の存在意義はない。
 

 
先代の真似をしているだけではないか?という漠然とした不安。もちろんめっちゃ尊敬してる。しかし。自分自身から目を背けてるのでは?という疑念。
 

 
サークル活動とかでゆるいですよ~ってみんなよく言うけど,それなら自分ら何に対して本気になるんやって聞きたい。
 

 
作業したいのか活動(≠作業)したいのかどっちなんだろう。
 

 
支部の中で誰かが支部長となった瞬間,それ以外のメンバーはたいていは支部長に任せたらいいという言葉が心に浮かぶ。逆に言えば現支部長は自分が引き継ぐ時点で,自分が消えても後輩が勝手に動くほどエンゲージメントを上げておく必要がある。そこで誰も動かないなら支部としてはそれまで。
 

 
人は変わらないし変われない。変わったふりをしてるだけ。
 

 
沈黙は肯定。
 

 
後輩のために頑張れない人間が国際支援なんぞ出来るわけないだろって時々思う。
 

 
主体的ってなんだろう?
 
誰にも言われずに勝手に動くのは主体的。誰かに言われ仕方なく動くのは受動的。ここまでは普通。でも,最初は誰かに言われないと動かなかったのが,何も言われずとも同じことに対して動くのは主体的といえない気がする。なぜなら要求水準を満たすだけで+αを作れないから。+αを作れない限り受動的なんかなぁ。
 

 
自分がSFTで求める楽しさは理念達成のために持てる力を最大限投与することによって得られた刺激,経験,学習です。それに対して第一目的としては避けるべき楽しさは頽落(=本来的なあり方から世間的なあり方へと落ち込むこと)の楽しさ。これだけは絶対に変わらないです。

 
もちろん第一目的としてこれを設定することを批判しているわけであって,無くせとは言っていない。現に自分もamong usを係でよくやりました。さらに言えば,この考えを強制するつもりはないし出来るものでもない。ただ,一つの思想としてとらえてもらえばいい。自分の考えは圧倒的少数派にすぎないだろうから。
 

 
マネジメントはパズル。各人はどんな活動が出来るピースなのかを考えて支部という全体像の中に組み込む。育成はそのピースが一つの形だけでなく,色んな形になれるように,別のパズル盤にも適用できるようになってもらうこと。そのピースがねじれないように,無理矢理型にはめ込んで壊れないようにすることが1on1。
 

 
キャリアの成長とか各企業言っていたけど,それは自己評価なのだろうか。キャリアが他者による評価なのであれば,それは他人の人生を生きているのに過ぎなくて,死に際に自分の選好充足が出来なかったな,自分の人生を生きれてなかったなってなりかねない。だから,キャリアとかそれに伴う給料というよりは,色んなところにいったり,一人で家というお気に入りの空間でダラダラ時間をすごすことを優先したい。それに伴って,仕事は生きるための方法論にすぎないと思っている。

 
しかし,難しいのはその方法論は一週間のほとんどをしめてしまうことである。その一週間のほとんどを生きるための方法論,自分にとって不本意な会社ですごしてしまうことはやるせない。そこで何が起きるのかというと生存手段としての会社勤めが自らの選好充足になる,生きる為に働くのではなく働くために生きるというコペルニクス的転回である。仕事は手段か目的か。中々解決しそうにない問題である。これについて解を見出すのは非常に困難である。おそらく解は二者択一ではなく,中庸に落ち着くとは思うが,働く以上一生悩むと考えられる。逆に言えば,働かなければこういった問題には気づくことができないのである。人生とは何か,仕事とは何か。これらを疑うための契機が仕事,社会参加,アンガジェなのだろうと思う次第である。
 

 
忘れてた,もともと自分は人に従うのも好きでなく,集団に入るのも好きでないということ。

 
忘れてた,他者に危害をかけない範囲で一人で勝手にやりたいタイプで自己満足なことしかしてないということ。

 
そして一人で勝手に動く行為が他者からするとみんなのために頑張ってるとか,リーダーシップがあるとか,真面目とかって評価される。そのたびに,そんなつもりじゃないけど善いことならこれからもやるかってやってるうちにそれが当たり前になって,それ以上のことを求められてしまう。 そうしているうちに集団の中心メンバーとなり,一人の時間がどんどん削られる。そうしているうちに集団の中でいい子ぶることが得意になって自分と集団の境界線がなくなってくる。 一度踏み入れたら最後なんだ。
 

 
理想論かもしれないが,リーダーはリーダーやりたいって言える人間以外やってはいけない。リーダーがイヤイヤでやると,それを見た人間は努力が自分の望まない結果を招くと学習する。それを見た新メンバーもまた,目立たない方がいいのだと学習する。その結果,誰も熱量ある人がいずに支部が潰れる。だから,支部長は次の支部長を育てることに非常に重い責任がある。さらに言えば,リーダーがいるよねって言ってる時点でその人はリーダーにはなれないし,なる気が無いのだけれども。
 

 
欲求から逃れられない事実に絶望しても絶望してもそれも欲求,と気付き絶望する私たち。
 

 
STUDY FOR TWOに溺れろ。
 

 
苦しみもまた私の本質である。すべての事象は私の意志の表象であり私を基底するものだ。つまり,私を苦しめるものも私を基底するものである。この苦しみから逃れようとすることは私が私から逃れることである。だからこそ苦しみは苦しみとなる。
 

 
心理的安全性は具体的にすると星野仙一さんの「配慮はするが遠慮はしない」です。
 

 
明言する。SFTの活動は遊びではなく仕事だ。広報するときにどうでもいいツイートをするか?遊びで目標設定や反省をするか? だからこそ,目先の楽しさや快楽に走ってはいけない。結果にこだわらないといけない。
 

 
「時間がない」「忙しい」は自身の能力の低さを公開しているのと,その役職の魅力を下げるのであまり言わないほうがいいと考えます。
 

 
人間関係のストレスを抱えないコツは相手の成功を願うという期待はするが,相手が自分の基準を満たしてくれるという期待はしないことです。

何かに貢献して初めて私の価値が検討される、吟味される。つまり、何もしない限り、私は存在しない、無価値に等しい。
 

 
責任感の強さとワガママは違う。自分の成果を追い求めるだけの集団はグループでもチームでもない。勉強したいと願うすべての子どもたちが勉強できる世界という目指すところは一緒なのだから,お互いに脚を引っ張り合ってはいけない。勿論,仕事の依頼の仕方がわるいから気にしなくていいよと言いたいわけではない。指摘された側は言われたことをしなかったという事実はちゃんと受け止めて反省し,改善する。指摘する人はどうすれば言ったことをやりたくなるかを考える。

 
早く行きたければ,ひとりで行け。
 
遠くまで行きたければ,みんなで「助け合って」行こう。
 

 
支部長の行動が支部の行動規範となる。支部の器=支部長の器。支部長がどれだけ望ましい行動を取り,同じ行動を評価するかで支部の在り方は全然変わる。文化というのは人が残した活動の軌跡。勝手に出来るものではない。自分たちが知らず知らずに選択してきた自分たちの言動の集合体。
 

 問題解決ができないのは,問題の一部しか知らないから。 
専門性を付けるなら自分の頭だけで考えない事。引用のないレポートは作文と同じように,自分の知識やスキルだけで行ったものは専門性に欠ける。誰か(社会人以上orSFT以外)のそれらを用いて掛け合わせることが専門性の一つの在り方。自分の頭で何でもできるわけではないと積極的にあきらめる。
 

 
あなたが減らしたいのは負担ですか?それともSFTから離れる罪悪感ですか?
 

 STUDY FOR TWOってやりたいことがない限り何もできないという残酷な環境だから,今何かやっている人たち(雑務含むあらゆる行為)はめっちゃ優秀だと思う。

 

 
悩む時間も大切だけど,期限を決めて決断しよう。悩む間も決断事項を実践する時間は刻一刻と減っているのだから。
 

 
相対化,客体化された弱さは強さだ。
 

 
時々怖くなる。周りの努力している姿を見ていると。自分だけ置いて行かれているんじゃないか。自分は何も出来ていないんじゃないか。自分の考えなんてたいしたことないんじゃないか。だから私は努力する。誰にも置いて行かれないように。誰かの力になるために。自分が自分を認められるように。
 

 
語弊はあるかもしれないけど,事務局はお金を生まない。お金を生むための要素の質と量を向上させているだけ。だから支部で愚直に頑張るか,事務局で支部の頑張るを支えるために頑張るか。そのどちらかがメンバーの責務。
 

 
批判と提案はセット。
 

 
後悔する時間は無限。実行する時間は有限。
 

 
世の中は行動することが善という風潮はあるけど,その行動に意味がないと評価はされない。訳もなく急に走り出す子に何を言ったらいいかわからないように。では,行動に意味をつけるものは何か。それが行動の目的=ビジョン。ここでなんで目的かというと,目標を目指しても目標だけでは目的との関係上不完全だから。ゆえに行動の目的,ビジョン,活動理念が大事になってくる。
 

 
他者との関わりの難しさをずっと感じているし簡単になるときはないと思っています。多分,簡単だなってなるときはチームとして機能していないか,周りが服従しているか,周りが自分の言うことを聞いていないときです。
 

 
とりあえず新支部長等新任の皆さんは早く失敗するor思い描いていた理想と現実の差にはやく唖然と,絶望することをお勧めします。そこからが本当の就任です。
 

 
真のリーダーシップとは従わない自由があるにもかかわらず,人が付いてくること。
 

 
採用でも同じだけど何かを目指すって何かを目指さないことを意味する。目指さない方向があるということはそちらを目指すものとの差異が存在することを意味する。この差異はただの差異,距離感であるはずなのに人はなぜかその距離感に価値を評価を下したがる。私が採用で悪いのはミスマッチではなくて,そうした関係が継続すること,というのはこうした意図もある。方向が違うだけ,合う合わないだけの話なのにそれを批判,ましてや非難することはあってはならない。
 

 
もっとみんな欲張っていい。自分のために動いていい。自分の時間を過ごせるのは自分しかいない。自分がありたいように動いたらいい。なぜなら大学生活なんてあまりにも儚いのだから。そして,その願望の貢献性,善なる部分を見よう。人の願望には善と悪の側面が必ずある。悪ではなく善を見よう。なぜなら,あなたの善は誰かの悪であり,あなたの悪は誰かの善であるように相補性がある以上,あなたにしか出来ない善の追求があなたと周りにとっての最高善なのだから。
 

 
人のモチベーションは自然落下する。しかし,その落下速度は変化しているとは自覚できないほどに緩やかもの。そんなときに,リーダーもその流れに従ってはならない。リーダーは絶えず上へ,上へとモチベーションを上昇させようと働きかける必要がある。具体的には,大切なことは伝わるまで何度も伝え続けること。
 

 
人間って自分が望む以上のものには基本的にはなれないので,良くも悪くも想定内の人生を送っているとも言える。その上で,想定外の人生を生きるにはやっぱりまずはやってみるということに帰結する。
 

 
このままじゃだめだという焦燥の風と,このまま休みたいという渇望の風がぶつかり,結果として何もしない凪が時折やってくる。

 心は高波を立てるのではなく,高潮でありたい。凪でありたい。
 

 
自虐は何の解決にもならない。ただ自身を保身して,相手を困らせるだけだから。相手が求めるのは相手が求めるものであり,私の自虐ではない。
 

 
物事を一点ではなく,二点間の中点として捉えることによって多角的な視野と心の余裕を持てる。
 

 
なんで人の話を聴くのが大事かってその話が当人にとって大事だから。話を聴かないということは話し手にとって大事にしていることを無下に扱うことを意味する。逆に,話し手の話を聴けば話し手は聞き手のことを自分が大事にしていることを大事にしてくれる人だと認識する。だから人の話を聴くのが大事。
 

 
緊張するということはそれくらい本気であることの証拠だと思っているんですが,みなさんSFTで緊張したことありますか?
 

 
貢献されるのが苦手だから,誰よりも先に貢献する。
 

 
すべての事象は正しい。ただし部分的には,である。
 

 
苦しみがあって初めて過去を美化出来るのであって,苦労のないように過ごしているだけではSFTにいて良かったと,思えないのではないだろうか。
 

 
頑張っている人が,頑張っていない人の存在でモチベやパフォーマンスが下がるなんて悲劇すぎる。
 

 
人生の最大瞬間幸福度が高い方がその時は幸せかもしれないけど,そこが今後の基準になり欲求不満を生み出すという意味では不幸なのかもしれない。
 

 
自身が成す役割や行いが副次的に生成する弊害によって責任感は養われる。その責任は過去遡及的なものでなく,未来志向的である。なぜなら,弊害は今この瞬間も生成され続けるからだ。だからこそ,責任感がある人は悩みながらも進み続ける。利益が増え弊害が少ないより良い今,そして未来のために。
 

 
鳥かごのワイヤー1本では鳥は不利益や不自由を被らない。しかし,ワイヤーが構造的に絡まりあった結果,鳥はそれらを被る。つまり人が些細なことで折れるのは自然なことなのだ。人の話を聞いて,「そんなことで?」と思うことはあるかもしれない。そのとき見ているのは相手の経験のひとつに過ぎないのだ。だから,全体像を把握するために親身に相手の話を聴く必要がある。 
 

 
正解を求める限り,どれも不正解だと思う。なぜなら,その時点では何が正解かは決まっていないからだ。だからこそ,悩んでいる時に求められるのは正の追求ではなく決断だ。決断には正不正はない。決断した結果あるのは,学びである。正不正は次に繋がらないが,学びは次に活かせる。

 
僕が優秀なのではなくて,僕を優秀だと評価する人が多い。
 

 
キャパシティの器は恐らく変わらない。しかし,その器の中にある保留中のタスクと実行中のタスクは変えられる。保留中のそれは数を減らせばいいし,その数を減らすということは実行中のタスクの処理速度を上げることと同義である。つまり,キャパシティを広げたいならやるべきことをすぐやること,これに尽きる。
 

 SFTには規律が存在しない。全支部のデータが期日内に集まることは滅多になく,無断のフェードアウトもしばしばある。この要因の1つとしてあるのは,貢献意識の低さであるように思える。団体の構成員である以上,その団体に,その団体が目指すものに貢献する責任があるという命題を多くのメンバーは意識していないように思える。これは回収販売という事業が誰でも出来るくらい簡易な活動であることが一役を買っている。現時点で出来ることに対して我々はそれ以上を追求しようとは思わない。


こだわりや追求心は,自発的なものであるため,使命感と責任感を醸成するが簡易的なものに対して我々はそれらを持たない。つまり,誰でも出来てしまうからこそ1人1人に本来分有されている団体への貢献責任を自覚することが出来ないのだ。その結果,拘束がないと錯覚した状態を(ーその状態は本来,無責任であるにも関わらず)自由であると言ってしまう。団体からすればやるべきことを出来ていないにも関わらず,やりたいことをやれると言ってしまう。
 

 
動く目的は言葉で,動き方は数字で。
 

 
今の私を見て,過去の私が幸せだったらいいのだけれど。
 

 
人々はSNSという拡声器を手に入れた。情報社会において,様々な情報が錯綜しており,情報の正確性が下がったり,一つの出来事が普遍的出来事として捉えられることもある。その一方で,私たちにとって不都合な事実や声にならなかった声が届くようになった。これは反乱か,それとも民主的な営みか。
 *
 たとえどれほど環境に恵まれていようとも,誰にとっても努力と成功は自身にとって誇らしいことであり,貶されたくないものである。競争が激化,早期化された結果,競争は多くの貴重な時間を代償にしてしまう。代償が代償に値したことを担保するために自身の努力と成功を誇る声が大きくなる。この悲痛な叫びはこれからの競争者と,何よりも過去の自分自身に向けられた叫びである。
 *
 私の問題ではなく,私たちの問題という態度を作り出せるかが否かがリーダーの力。
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 困った時はお互い様という言葉は,ケアする人々には搾取的な言葉である。なぜならケアされる人がケアする側に回ることは滅多にないだけでなく,ケアする人は周りに迷惑をかけないようにしている,つまりケアする側に回る人間は大抵固定されているからだ。さらに,ケアする人に対する周りからの一貫性への期待がケアする人にとって義務として映る。一貫性への期待というのは,この前も助けてくれたから今回も助けてくれるだろうというケアを求める者の期待である。しかし,ケアする者にとってこの期待はかなりの負荷である。なぜなら前回と今回の対応が異なることは,判断に一貫性を持たせるという倫理的判断の原則に反するからだ。

 こうしてケアする人は貢献から始めることを決めた過去の私とケアを望む者に搾取されがちであるが,見かけ上は非常に道徳的,倫理的で,献身的な人として映るようになる。このためにケア倫理の前提である弱い人間観はケアする者には適用されないようになる。

サポートってみんなよくいうけど,サポートするには相手の苦しみを理解できるだけの経験量がないといけないし,効果的なサポートも出来ない。もっと言えば,経験量がないと相談されることもない。サポートするからといって,何もしなくていいわけではない。サポートするにもそれ相応の準備や努力が必要。苦しみは他者理解の共通言語。

 
自己開示は理解を促すが,魅力を削る。多くの人びとは他者に理解されることを喜ぶ。では,理解される悲しみはあるのだろうか。それは自分の苦悩や意見,そして自分自身が特別でもなんでもないただの凡人だと気付くことだ。その背後にあるドロドロとした塊に気付くことだ。

私を殴ってくれ。あなたが私に与える苦痛こそが,私にとって最も救いだから。私を理解してくれていることの,何よりもの証左であり,生の実感を与えるものだから。


アフォリズムというものをやってみたくなった。

この文章を読んでいるあなたは,半分も理解できていないかもしれない。
だが,それでいい。

知はあなたを蝕んでいくから。どこからともなく囁くからから。
血はあなたを中から作り替えていくから。

あなたの頭の中でも例外なく,小悪魔な言葉は知ってしまった責任をあなたがどう処理するのかを楽しみにしている。

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