ビジョナリーコンテストに、TFT-UAが予選二位で通過しました!何と、個人賞まで!ありがとうございます。明日の本戦では、より多くの人に熱意が伝わるプレゼンをできるように頑張ります🔥
突然ですが、TFTの活動を知った方に「すごいね」と言われることがあります。
私は「すごい」と思って欲しくないな、と最近思います。「すごいね(私にはできないけど)」って意味が強く出ていると感じてしまうんです。実際そうじゃないですか???
例えば、私は筋トレが続かないのですが笑、筋トレ頑張っている人を見て「すごいね」という場合、「すごい(私も頑張る!)」よりも「すごい(私には無理!!!)」の方が強いです・・・
でも、筋トレは個人の自由ですのでこの話はおいといて笑
「すごいね」って褒められるより、私は自分のことのように悲しんだり、「私も何か些細なことでも協力できるかな?」と思って欲しかったりします。でも、そう思える人って多分私も(筋トレなど)含めほとんどいないんじゃないですか???笑
でも、それって何でだか、考えたことはありますか?
私は、自分に余裕がないから、自分がまず幸せになってないから、だと思うんですね。
自分に余裕ない時って正直他の人に気を配ったりできないですよね。できても、長くは続かないと思います。自分が壊れちゃうから。自分がいかに恵まれてるとか、幸せかとか実感していないと、客観的に物事を見れないと言うか、本当に他人と向き合うのってできないです。
私は頭がいっぱいいっぱいでただただタスクをたくさん抱えているときに、NPOなどすごい団体のことを聞くのも、他の人にこうなんだよね〜とかを聞くのさえも、ふ〜んってなってしまいがちです。
だから、途上国の人々を自分のことのように思えるって言うのは、「感情豊か」「普段からNPOとかそう言うことをやってる」とかではなく、自分が安定してるかどうかって言うのも大きいんじゃないかなあと思います。
メディアでボランティアやNPOの活動を見て、「すごい」で終わらせるのではなく、私もこの現状を変えられるように頑張ろう!という風になるように、まずは自分がどうしたら自分で自分を好きでいられるのかな?と考えていけるようになりたい、と思った日でした。
みなさんは、何で「すごい!」でおわってしまうのか、と
考えたことはありますか?