賞賛の文化によるエンゲージメントへの違和感

タクシーに乗ると、賞賛の文化が育むエンゲージメントといったサービスをよく見ますが、私には違和感しかありません。

我が社で賞賛の文化を創りましょう!!

と宣言したとすれば、私は褒めるたびに、違和感を感じてしまうでしょう。私は本当に褒めようと思っているのか、賞賛の文化を創ろうとしているから褒めようとしているのか、頭を過ってしまうでしょう。

褒められた方も、社長は賞賛の文化を創ろうとして褒めてるのではないか?と疑念が湧いてしまうのではないか?

そんな風に考えてしまいます。

今、目の前の賞賛、良いね、を得ようとすることが目的になってしまうと、人が見ていなければやらないのか、という事になります。

人が見ていても、見ていなくても内なる声に従って、私がこうした方が良いと思えることをする。人が見ていないところでこそ、努力を積み重ねる。その方が自然です。

褒めてくれる親だから良いわけではありません。褒めてくれる上司だから良いわけでもありません。滅多に褒めない厳しい親や上司は、意欲を削ぐ人ではありません。エンゲージメントを低くする要因ではありません。

インスタントラーメンのように、インスタント満足ばかりの世の中になっていないか?

賞味期限の短い紛い物のエンゲージメントが創られようとしていないか?

私は後世にそんなものを残したくはありません。