こんにちは。京大4回総合人間学部のまさなりです。
今年からK-Lab.っていうサークル?学生団体?を創出して、代表として頑張っているのですが、つまらないボケで雰囲気を壊してしまい、団体初の退会者になりました。
自分で作った団体なのに、辞めさせられるというまるでAppleを作ってクビになったスティーブ・ジョブズみたいな人生に運命すら感じます。
嘘です。早く招待して下さい。
今回は、絶対的な答えがないこの世界でどう生きて行こうか、という話をしたいと思います。
もう1人のカタルシス経営者のこの記事の中でも述べられていますが、「普遍的正解」や「絶対的正解」が無いこの世界の姿が露呈してしまっている現代で、何を拠り所に生きていけば良いでしょうか。前もって言っておきますと、私は先程の彼とほとんど同じ前提に立ちながら、全く違う生き方を「正解」として生きています。同じ団体でも、同じカタルシスという価値を追求しながら、全く違う生き方を追究する人達が巣食う組織。これもまた、私がこの団体を好きな理由です。
読めば、少しだけ心が軽くなる(かもしれない。
話が逸れてしまいました。今回は、
- そもそも「絶対的正しさ」や「普遍的な正しさ」は無いのか?
- その上でどう生きて行くか
の1について話たいと思います!
そもそも「絶対」や「普遍」は無いのか?
えっ、ちょっと待って!そもそも「絶対的正しさ」や「普遍的正しさ」って無いの!?
って思われた方も多いと思います。
私だってあると思っていましたし、今でも心のどこかであるのでは、と期待しています。
私自身かつては、正義の正解はこれだ!と言うものを特定して、社会をそれに向かって改善していこう!と息を巻いていました。
社会の理想が1つに決まるなら、それに従って、自分の生き方の理想も決めることが出来る、そう思っていたのです。
しかし、京都大学で色々なことを学んでいく中で、一旦普遍的正義を追究することを「諦める」事にしました。
少し話は変わりますが、実は私、政治哲学が好きで私なりに勉強してきました。簡単に言うと「正義とは何か」について考える学問です。
でも辿り着いた先にあったのは、「普遍的正義の不可能性」と「普遍的正義の不可避性」でした。
それは、西洋的な価値一元主義が行き詰まっている事から分かります。例えば、有名なトロッコ問題について、少し考えて見ましょう。
「トロッコが暴走していしまい、その線路の先には、5人の作業員が立っています。あなたは、運良く(悪く)その線路のレールを切り替える地点に立っています。もし、あなたが切り替えれば、トロッコはもう一方のレールの方へ走っていきますが、その先にも1人の作業員がいます。さて、どうするのが正解でしょうか?」
あなたならどうしますか?5人を助け1人を殺すと、答えたあなたは、功利主義者である可能性があります。何もしないと答えたあなたは義務論者であるかも知れません。しかし、どちらが正しいと言えるでしょうか。そもそもどちらかだけに正解があるのでしょうか。
また、「貧しい者を救うために、金持ちだけに課税をして良いか?」という問に対しても、リバタニアリズム、リベラリズム、社会主義それぞれの思想によって答えは変わってくるのです。これらのどれが正しいと決着を着けれぬ以上、普遍的な正義は特定できなさそうです。
「普遍的な正義」は不可能であるのは、上の通りなんですが、同時にそれの追求を諦めることを選んではいけません。
「普遍的正義」を諦めてしまえば、法の根拠はどこにあるのでしょうか。また、価値相対主義的な立場では、基本的人権といった人間全てに時代を超えて与えられる権利さえ否定しかねません。そうなると、社会はどうなってしまうでしょうか。言うまでもありませんね。それを止めるためにも、普遍的正義というのは、理想の社会のため、みんなを納得させ、合意させる上で避けては通れぬものなのです。これが、「普遍的正義の不可避性」です。
今度は、他の観点からも「普遍的正義について」考えてみましょう。(学際性売りにする総合人間学部らしいので..)
うちの副代表が大好きな社会構成主義によれば、「普遍」と呼んだその概念さえ、社会の共通理解の上にそう名付けたものでしかなく、「本質」では無いとのこと。例えば、「正義」と言うものは、文化圏が違う所に行けば全く違う答えが出てくる。それは、その「正義」という概念自体が社会に依存しているからだという訳です。だとしたら文化圏の数だけ、果てには人の数だけ正義がある事になりますね。
物理学の力学系からみれば、「最初の条件を完璧に揃えれば、未来が予測(=計算)できる」というラプラスの悪魔的発想は、現実では難しいことがカオス理論で言われています。それは、最初の条件が無限にあり計算不可能な現状において、正確でない初期値のもとに計算すると、僅かなズレであっても、未来には大きなズレとなって返ってくることが言われているからです。これはいわゆる「ブラジルでの蝶の羽ばたきが、テキサスでのトルネードを起こしうるか」という事象を現実的には予測不可能だとするバタフライ効果から来ている所もあります。こう考えると合理的に逆算的に「普遍的な正義」を突き詰めていくのも現実問題難しそうです。
次に、脳科学(正しくは神経科学みたい)の面から見ても「正しい」や「善い」、「美しい」という判断は、それ自体揺るぎないもでは無く、どのように示されるか、どこからの出自なのかと言った文脈に左右され形作られていくものらしいです。これは、神経美学という領域で実験されている段階。(ちなみに、美と善を判断する上で同じ脳の領域が活動することが分かっているらしい)。そうなると、「普遍」と判断すること自体怪しいものになってしまう。。
そろそも進化論によれば、「善い」「正しい」なんてものは無く、たまたま生き残ったものが「善かった」「正しかった」と認識されるだけで、価値を図る尺度は、ただどのくらい生き残っているかの「持続性」でしかないと言う。
最後に、私大好き認識論と実在論という哲学の目から見ても、主観とは独立に客観的に正しい「正義」は実存するのか、それはそもそも定量化出来る概念なのかというそもそも論も出てきます。しかも、認知の外にある知識や情報、観点を取り込んでも取り込んでもキリがない限り、時代や地域から独立した普遍に近づくのは難しそうです。今の詳しい解説は、これを幸福と人生の選択肢に置き換えて説明した、以前のこの記事を読んでいただければ分かりやすいかと思います。
学生起業"カタルシス"は何をどう変えうるのか。vol.3
この様に色んな観点からなかなか「普遍な正義」を手に入れるのは難しい様です。。。残念。
私はここに行き詰まりました。「普遍」や「絶対」何てものは無いのかと。正直悔しい。
しかし、私はこれで「諦めて」終わりませんでした。何故なら、「普遍的正義」は「不可避」だからです。
私はその先に、私自身の生き方を見つけました。
それは次回にします。
今回は難しくてごめんなさい。私も不安になって調べ調べ落とし込みながら書いてみました。(間違いもあるかもしれません、その時は指摘して頂けると幸いです。)
また、次回会いましょう!