新しい集合知の確立を目指してーBRAIN活動概要


 とまり木が活動を開始してから3年もの歳月が流れようとしている。当初こそ発起人たちの純粋な知的好奇心から始まった当活動であるが、同時に活動をするにあたって果たしていきたい役割、理念なども徐々に形になり、様々に共鳴してくれる方々のおかげで少しずつ規模を拡大し、学問領域の垣根を越えて多くの知見が集積する貴重な場になったと思う。


 本来の勉強会に加え、2020年の夏からはコロナをきっかけに色々な学生や団体に取材をする。Clueという新たな試みも始まった。これは、我々の理念の一つである、人と人とが繋がれるきっかけを提供したい、そういう場でありたいという思いが具現化したものといって差し支えない。


 そして目下、企画が進んでいるこのBRAINであるが、果たしてどのような活動なのか。本頁では学生シンクタンクの活動を統括する部門であるBRAINがどのような活動をしていくのかを代表である私(安東)が概説する。



学ぶ者たちの共闘戦線の具現化


 とまり木の掲げるもう一つの理念であり、かつ将来的なビジョンでもある「学ぶ者たちの共闘戦線」であるが、それを実際に実行していくための部門としてBRAINを据えていきたいと考えている。しかし、「学ぶ者たちの共闘戦線」といってもあまりピンとこない人もいるだろうと思うので、ここで改めて具体的にその理念の目指すところを明らかにしておきたい。


 それは極めて素朴な話である。一人よりは二人、二人よりは三人が寄り添い、力を合わせれば、そこで生み出される相乗効果の方が、一人孤独に戦うよりも大きくなるだろうという考えに基づいている。

 そもそも、学問の世界は閉鎖的な部分がある。それは携わる人のせいというよりは、そもそも学問自体がいくつもに枝分かれし、複雑な体系を有するようになったという見方の方が正確だろう。学問には「実験・観察や思考実験・議論・推論などを通してある現象の根底にある法則性を見出す」ということと、「実験・観察結果や思考実験の結果などをより効率よく説明し、効率的に予測を導いてくれるモデルを構築する」ことという、主に二つの目的がある。それらの営みを通じ、人々がよりよく生きるために先人たちが多くの蓄積を生んできたわけだが、いかんせん、その対象が専門分化しすぎている。自分の専門以外の領域に手を出すには、あまりにも高い障壁が立ちはだかっている。

 ゆえに、ある事柄に対して、全く違う視座から語られる言説が交差し、貴重な洞察が生まれるという出来事が、残念なことに局所的で単発的なものに留まってしまっている。しかし、学問の力が持つ可能性はこんなものではないと私は確信している。もっとたくさんの学生が集い、様々な事柄に対しての色々な発言が蓄積され、相互批判を経て、整理され、比較され…といったことが可能になったときに生み出されるものを想像したとき、とてもワクワクはしてこないだろうか。とまり木はそういった営みが可能になるための十分に組織化され制度化されたフォーラムを作っていきたいと考えている。そしてそのためのBRAINということである。


なぜ提案を行うのかー「まだないもの」としての希望


 ドイツのユダヤ人哲学者のブロッホは、希望と呼ばれるものを、これからいい事が起こる、今よりいい状況になると楽観的に信じることではなく、「まだ—ない」ものとして捉える。人々は過去の出来事や経験、それによって得られた記憶や無意識の感覚による影響を免れない。つまり現在の自分は、過去の出来事すなわち「もはや—ない」ものの存在に大きく影響を受けているのである。ブロッホはそれと同様に、人々は「まだ—ない」ものによっても規定されているのではないか、と問いかけた。

 人々は無意識のうちに未来に対して何らかの態度をとっており、その態度は現在の自己の在り方に影響を及ぼしているはずだというのがブロッホの問題意識である。それをブロッホは「希望」という概念に託したのである。社会がどのように変化していくかは正確に予測できないかもしれないが、それでも現在の社会の中には来るべき未来を実現していく社会的な力が隠されていると考えた。その力は現在まだ潜在的なものに留まっているが、それが本当に存在するなら、その秘められた力はいつか必ず明らかになる。それならば、今は目に見えずともやがて未来を形成する力を信じること、そのような未来への姿勢こそが、今の自分たちの在り方を決定てしていると彼は主張したのだ。

 これをとまり木流にさらに噛み砕き敷衍すれば、「未来はわかならい」という事実そのものが希望になりうるということである。未来に確信を持つことは難しい。しかし、我々は学問がよりより未来を切り開く可能性があると信じている。少なくとも、人々の叡智の集約が、その集合知が、少なからず今現在見通しの悪かった何かしらを明らかにする可能性は十分に確信できる。繰り返すが、それによって未来がよりよいものになるかは確信を持てない。それでも可能性あるならば、こうすることは十分に意味がある。何よりも、わからないから先に進めるし、わからないからやるのである。


 

 そうした集合知を生み出すためのメディアがBRAINなのである。