アフターコロナの時代に 第1回 ~メディア化したコロナ~

COVID-19(新型コロナウイルス感染症)による世界規模でのパンデミックが生じてから、まもなく1年もの時間が流れようとしている。いつか今年を振り返ったとき、建物や街から人々の姿が消えたあの異様な光景は、2020年を象徴するワンシーンとなるだろう。



 最近では街にもずいぶんと人々の姿が戻り、元の生活に戻りつつあるようにも見えるが、依然として感染者は増え続けている。人々が何とか元の日常に復帰しようと頑張っているだけで、新型コロナウイルスはまだまだ世界的に収まる気配を見せていない。2度目のロックダウンを実施した国も出てきている。

 コロナによる騒動は、単なる感染症の蔓延という枠を逸脱しつつある。コロナによる大規模な影響は、人間社会のいたるところに大きな変化をもたらすこととなった。労働環境の変化はその代表的な例だろう。他にも価値観や社会事象、人間関係など影響のあった事柄は枚挙に暇がない。なぜ、人間社会にこれほど大きな影響がでたのか。端的にいえば、「人」と「人」との「間」の関係性に生きる「人間」という生き物に対して「人」に会うなという挑戦をコロナは叩きつけてきたからである。地震や台風などの局地的な被害をもたらす災害と違って、地域や国境を超えてあらゆる人々が当事者として巻き込まれたことも大きい。最早コロナは人々にとっての一つの「メディア」になってしまったのである。


コロナというメディア


 メディアとは何か。以前、とまり木バズセッションにおいて本記事の執筆者が「コロナとメディア」という題で発表を行った。


 コロナの中での報道の様子を批判的に観察する内容であったが、ここで注目したいのはメディアの役割である。


 このスライド画像中央にあるように、メディアといえば多くの人々は新聞、テレビ、インターネットなどのマスメディアをイメージするだろう。しかし本来メディアとは、情報の記録・伝達・保管などに用いられる物や装置全般を広く指し、それを通じて人々の間のコミュニケーションを可能にもすることから、媒体などと訳されることもある。つまり、人と人との間を繋ぎ、媒介するものは総じてメディアと呼べるのである。この記事もまた、読者のあなたと私との間でコミュニケーションが成立し、ある種の関係性が生まれているという点で、一つのメディアなのである。


 メディアの果たす役割は大小様々に存在するが、最も大きなものの一つは「同時空間性による公共空間の創出」である。簡単に説明すると、同時空間性とは文字通り、同じ空間と時間を共有しているという感覚のことで、公共空間とは、親密な人のみならず、全くの他人を含む複数の人が同じ時空間を共有する場を広く指していると思っていただきたい。

 普段、私たちは親しい家族や見知った友人らと対面しながら日常生活を送る直接世界の中に生きている。しかし、例えば通勤・通学のために電車に乗ることがあるだろう。その際私たちは全く素性の知らない他人たちとしばらくの間、同じ時間同じ空間を共有することになる。そこでは、他者を凝視することは失礼とされ、互いに相手に視線を向け合わないようにする、つまり意図的に無視しあうというコミュニケーション(儀礼的無関心と呼ばれたりします)が求められる。互いに知らない人同士で何らかの関係性が成立しているのである。これが公共空間。

 上図の例では、複数の直接世界(家族連れだったり、カップルだったり、同じ大学の友人たちであったり見知った者からなる、直にやりとりが生じる集団)が、花火大会という出来事を介して間接的に関係し、一つの巨大な公共空間を生み出している。それぞれの集団の間に直接的なやりとりは存在せずとも、あの日あの時、同じ花火を見上げていたという事実が、それを共有する人々の間に「あの花火大会を観に行った私たち」という形で何らかの共通認識を抱かせる感覚は決して想像に難くないだろう。偶然ゼミで一緒になった同期が同じ花火大会にいたと知ったとき、それだけで生まれる関係性というものがあるはずだ。この時、花火大会という出来事が、それを目撃した人たちの間に何らかの関係性を生みだしているという点で、メディアになっているのである。

 鋭い読者はもう察しているかもしれないが、現在私たちはコロナ禍という共通の出来事を共有している。そしてその中で、コロナの存在を前提としながら新しい社会システムや人間関係を構築していくことを強いられている。事ここに至って、コロナはメディアになったのである。


コロナは収束しない??


 ここまででコロナがどうしてこれほどの騒動になったのかが理解できたことと思う。そんな未曽有のパンデミックであるコロナ禍だが、果たしていつ収束するかが気になるところだろう。恐らく、コロナは当分収束しない。理由は主に2つ。

 1つは新型コロナウイルスはミューテーション(突然変異)を起こすということである。

様々な調査によって、そもそも新型コロナウイルスに対する抗体は、2カ月の単位で減衰することもわかってきた。それは「再感染が起こりうる」ということを意味する。既に香港などで、遺伝子変異を起こした新型コロナウイルスに再感染した患者も報告されるようになってきている。もちろん、再感染では重症化しない可能性もあり、必ずしも悲観的な事実ではないが、ワクチンなどのコロナ対策を考える際には楽観できない事実である。

 もう1つの理由は、インフルエンザの存在である。名称こそ無かったが、実はインフルエンザと考えられる感染症は、古代ギリシャの時代から存在する。インフルエンザが撲滅されることなく人類とともにあり続けるのは、実はミューテーションによる影響が大きい。そのため毎年別のワクチンを打つ必要があるのである。コロナウイルスもまたミューテーションをするのであれば、インフルエンザと同様に長い付き合いになる可能性は極めて高い。そもそも、特定の感染症を撲滅できた歴史はほとんど存在しない。ウィズコロナの時代はかなり長い間続くと考えておいた方が得策であるということだ。


災害大国日本に住むということ ~コロナによる不可逆の変化~


 仮にコロナが収束したとしても、本当の意味で「コロナ以前」に戻ることは、恐らくない。それを確認するためには、昨今の社会の変化の不可逆性に触れる必要がある。


 日本社会全体に暗い影を落としたという意味で、3.11の大震災は多くの人々の中に未だに鮮明に焼き付いている。2011年の東日本大震災で100年に1度ともいわれた大災害を経験してからというもの、社会システムをどのようにして作っていくべきかという課題に我々は向き合わなければならなくなった。とはいっても当時は復興に重点が置かれ、「大災害」は「いつか来る」ものという認識で今後備えていくものという論調だった。

 しかしその後、地球環境の変化により、強力な台風などの自然災害の猛威は、毎年のように発生するようになった。○○年に一度というフレーズも数年の間に何度飛び交ったか定かではない。そして今回のWHOのパンデミック宣言は10年ぶりであるが、逆にいえば、10年に一度の頻度でパンデミックが起こるようになったという見方もできる。「いつか来る」ものは「いつもある」ものへと前提が変化している。

 こうした変化が意味するところは、これまで我々が当たり前だと思っていた日常は、たまたま偶然の状況が長く続いただけということを明らかにしたことである。明日からの日常は、これまでの日常とは異なる新しい日常となってしまったのである。もちろんこうした災害があったから、直接社会が変わるわけではない。21世紀に入り、資本主義と社会主義の対立の時代が終わり、資本主義を軸に人類が「進歩」をスローガンに一丸となろうとした時代も終わりを告げようとしていた。そもそも人間社会の多くの場面で転換点に差し掛かっているのである。コロナはそれを急激に早めたということだ。我々は変化していく時代に、コロナしかり新技術しかり、これまでに無かったものとの共存を強いられている。


 コロナがメディアと化したと先ほど述べた。そして同時進行で社会が変化していく時代に我々は直面してもいる。その意味で、この変化そのものがある種のメディアになっている。我々に共有される経験となっている。コロナ自体が収束したとしても、既に生じている変化はもう止められない。コロナの前の状況に戻る、ということは厳密にはありえない。つまり不可逆の変化なのである。


コロナ禍におけるBRAINの役割


 コロナによる世界的な危機は過酷ではあるが、それはきっかけの一つに過ぎない。また一方では、新しい価値観の創出やイノベーションのチャンスとして、社会制度や産業構造の変革を押しすすめ、工業化社会や資本主義のパラダイムからの不可逆な脱却の好機と捉えることもできる。今後も訪れるだろう大災害や度重なるパンデミックと共存するためには、社会関係資本に基づく新しい相互扶助の在り方によって、経済が滞っても皆が最低限の人間らしい生活を送れるような社会を本気で構想していく局面なのかもしれない。

 BRAINでは、そうした一連の出来事を一つの重要なトピックに据え、とまり木への参加者によって共有された知見を最大限に利用しつつ、そして時に他団体とコラボレーションをして意見を交わしていく予定である。可能な限り人類の叡智を集約し、様々な思考や試行をしていくための提案をコラム掲載という形で行っていきたいと思う。そうするなかで、今後社会がどのように変化していくか、そしてその中で人類がどのように生きていくべきなのか、考察を深め、少しでもヒントを提供できるように努める所存である。