【衝撃】秀實社様との合同ディスカッションに参加してみた結果!

みんなおまたせっ!ゼロの期待の巨星、青山です。

 

突然ですが、櫻坂46の『サイレントマジョリティー』、スーパーいい曲じゃないですか?

 

2番の「選べることが大事なんだ 人に任せるな 行動をしなければNoと伝わらない」とか痺れちゃいます・・・! カッコよすぎる。私が石油王なら秋元康に5000兆円渡してたよ。「また頑張ってくださいね!」って、ポンと出しちゃってた。

 

ってことで、「行動して私の考えていることも伝えてみたいな~」と思って初記事を書いてみました! バウムクーヘンでも食べながらまったり読んでください(*’ω’*)

 

 

今年11月27日、秀實社様との合同ディスカッションイベントが開催されました!

2つの議題についてゼロメンバーが意見を交わした上で、議題について秀實社様からの意見をいただきました。

 

私が考えたこと、これからやっていきたいことをまず言ってしまいましょう。

「論理は素朴でも構わない場合があるため、言説は論理学的視点だけでなく、社会学的観点からも評価していこう!」

”自由”とは何かについてもう一度考えよう!」

の2点です。

 

今回はあえてディスカッション自体ではなく、私含めたメンバーがディスカッションを行うことや秀實社様と話すことでどのようなことが発生していたかに注目してみたいと思います(*´▽`*)

 

さて、みなさんは下記の文についてどう思いますか?

「学校では100点満点は褒められることだが、社会では100点満点が当然である」

 

 

 

これを論理学的な文に直すとこうなります。

「学校での100点満点は褒められることである。社会での100点満点は、当然のことである」

 

 

さて、これに皆さんは共感を寄せたでしょうか?

私はこのような説明を秀實社様の社長から受けました。そしてこう思いました。

 

・学校と社会には論理的な関係性がない。

・100点満点の定義がなされていない。

・学校での評価方式と社会での評価方式は同一でないため、アナロジーとして不完全ではないか?

 

100点満点の定義をしないと、受け取った人によって解釈が変わってしまいますし、この文自体がちゃんとしたものであるかはわからないでしょう。

100点満点は「サービスが円滑に行われること」なのか?

100点満点は「顧客が満足すること」なのか?

曖昧になってしまいます。

 

 

しかし、私はこの考えは一面的だとすぐに気づかされました。参加したゼロメンバーの中には笑みを浮かべる者や、心打たれたという人がいたのです。

 

つまり、上述の文は、「論理性には欠けるが、人に強い影響を与えるもの」だったのです。

 

今まで私は、論理性など文の正当性についてばかり考えてきました。

 

しかし、世の中には論理的でないのに重要な意味を持つ言説がたくさんあります。

 

言説は、論理的視点だけでなく、社会的視点から見つめることも必要であると気づかされました。

 

たとえば「学校では100点満点は褒められることだが、社会では100点満点が当然である」

の場合

 

100点満点を「顧客が満足すること」と解釈したとします。すると、100点満点が当然なら、もっと顧客に喜んでもらえるように頑張ろう!と意気込む人が出てきます。

 

100点満点を「サービスが円滑であること」と解釈したとします。すると、100点満点が当然なら、事故が起こらないようにより気を付けよう!と意気込む人が出てきます。

 

 

このように、あの文には、「労働(またはビジネス)をするやる気を高める」という効果があったのです。これがポイントです。

 

私はついつい名言や金言などを論理的観点から疑ってしまいますが、それ自体がどんな効果を人に対して持っているのかを観察してみることがこれから大切になると考えました。

 

 

 

さて、イベント中にはこのような発言がありました。

「仕事などが終わって余った時間を遊びに費やすか、自分を高めることに使うかが重要だ」

 

また、「日本と海外の大学に関して、その違いを調査した上で、日本の大学の良い点・改善点、また、日本の大学生に必要な知識や体験について議論する」というテーマにおいて、私はこのようなことを言いました。

「日本に限らず、先端技術への傾倒が激しく、文系学問や基礎研究は軽視されている。この潮流が学生を勉強から遠ざけているのではないか。」

 

この2つは、新自由主義(ネオリベラリズム)が背景としてある主張だと思います。ネオリベラリズムとは、wikipediaによると

 

「ネオリベラリズム」(en:Neoliberalism)。1930年以降、社会的市場経済に対して個人の自由や市場原理を再評価し、政府による個人や市場への介入は最低限とすべきと提唱する。1970年以降の日本では主にこの意味で使用される場合が多い。

 

今回のイベントでは、新自由主義的思考がベースとなっている様子が見られました。

 

「仕事などが終わって余った時間を遊びに費やすか、自分を高めることに使うかが重要だ」

 

という発言に対して反対意見を言う人はいませんでしたし、新自由主義に対抗するような発言は特にみられませんでした。

 

・・・自由とは何でしょうか?

ネオリベラリズム的思考では市場原理を重視しますから、基本的には自己責任です。政府の介入は最低限ですから、貧困になってしまった場合に少なくとも政府は救うことが難しいです。

 

新自由主義という言葉にはもう一つの訳語があります。それがニューリベラリズムです。

「ニューリベラリズム」(en:Social liberalism)。初期の個人主義的で自由放任主義的な古典的自由主義に対して、より社会的公正を重視し、自由な個人や市場の実現のためには政府による介入も必要と考え、社会保障などを提唱する。

 

どちらも新自由主義と標榜していますが、逆のことを言っています。つまり貧困になっても政府が救ってくれるのです。

 

しかし、ニューリベラリズムの場合、政府は介入を果たすために高所得者に重い税金をかけるでしょう。努力して成功したのに、政府に取られてしまうのは違うのではないでしょうか?

 

このように、”自由”といっても色々な意味があり、何が正しいと言い切ることは不可能です。

 

私の考える自由は、「どんなことを志向してもある程度の生活が保障されること」です。

 

ネオリベラリズムは、市場主義を評価するため、市場で評価されないことは非効率であるとなります。つまり、市場で評価されるものが強く促進され、市場で評価されないものを強く抑圧します。

 

対して、ニューリベラリズムは、「政府による介入も必要と考え」とあるところからもわかるように、市場主義への信用がネオリベラリズムよりも低いです。但し市場を完全に廃止するように主張するわけではないので、市場で評価されるものがやや抑圧され、市場で評価されないものについてもやや抑圧されます。

 

従って、ネオリベラリズムとニューリベラリズムは、市場主義を軸にして考えると、市場で評価されるものとされないもの、2つをどの程度抑圧するか、という風に見ることができるのではないでしょうか?

 

すべての人間が市場で評価されることを学ぶこと、行うことに尽力しようとするわけではありません。ゲームを遊ぶことに熱中する者、ボランティアに力を注ぐ者など、市場で必ずしも役立つとはいえないことに尽力する人もいます。

 

彼らを「そのことは市場で評価されないから非効率だよ」とすることは私はできません。市場を中心とした考えならば勿論その主張は間違いとはいえませんが。

 

ゲームを遊ぶことに熱中する者は社会貢献をしていないという主張もあるでしょうが、私は社会貢献は人間たるための必要条件とは考えません。いかなる者も人間としての生活が保障されてしかるべきと考えます

 

そのため、彼らが抑圧されないように、政府が厚めの社会保障を行うことによって、どんな人にも十分な(私の考える十分は最低限ではなく、それよりも高いものです)生活が保障されることを、私は理想と考えるのです。二元論的に言うと、ややニューリベラリズムよりだといえます。

 

余談ですが、私は人間を信じていません。どのような点でかというと、誰とも知らぬ人を助けること、つまり利他的である、という点でです。それが上述の意見を形成したのかな、と考えています。

 

これは、日本規模だけでなく、世界規模、小さくは貴方の生活規模にかかわる21世紀の最大の論点の一つだと思っています。ぜひ皆さんも一考を傾けてみてくださいね(*’▽’) それでは、したっけ~!(北海道弁でさようなら)

 

最後に、合同ディスカッションイベントの開催に尽力していただいた秀實社様、ゼロの運営メンバーたちに感謝申し上げます。貴重な機会、ありがとうございました!

 

 

SNSも要チェックだ。君は、小宇宙(ゼロ)を感じたことがあるか。

連絡先

メールアドレス

kibousakura0@gmail.com

各種サイト一覧

 

nakano.e
2020.12.07

記事を読んで、なにをどこまで社会貢献というのか?という疑問を持ちました。自由についてもゼロで議論していきたいテーマです!

あおやま
2020.12.05

>>佐々木さん
リバタリアニズムのことですよね。wikipediaを一読した限りでは、正当な手段で・・・というのが引っ掛かりますね。下部では、アメリカでは自発的支援が当然のことと認識されているとありますが、これがどの程度正しいかの検証も必要です。「正当な手段で」がレトリックなのか、緻密に練られた理論なのかをよく見ることがカギとなるでしょう。

>>>熊川 友理さん
質問が盛んにおこなわれていたことはゼロの雰囲気が醸す特長で、私もとてもよかったと思います。これからもゼロはどんどん開放的な団体になっていきますので、ぜひ楽しみにみていてください!

K
2020.12.01

あおやまさん
サイレントマジョリティー、いいですよね。
私も好きです、あのダンスも(笑)

さて、先日のディスカッションイベントではありがとうございました。
私も、皆さんのディスカッションの様子を見ていて、非常に刺激を受けました。
特に、日本人特有の「授業」とならなかったところが良かったですね。
・疑問点があれば、後回しにせず、積極的に質問をする。
・受け身ではなく、自分の考えや感じたことを、言葉でアウトプットする。
・そして、予習をした上でディスカッションに臨んでいるため、濃密な時間となっている。
上記のような点から、皆さんの普段の活動に取り組む姿勢もイメージすることができました。

ゼロさんの活動が、さらに充実することを願っています。
今後ともよろしくお願いします!

SasakiJun
2020.12.01

思想の説明がなされていて面白いですね。
私的にはリバタリアンとリベラリズムを比較したいですね。

関連記事