東京と言えば、どんなイメージを持つだろうか。
道行く無数の人影、無関心と冷淡のコンクリート、眠らない夜。騒がしい車の排気音、強襲迫る高層ビル群。僕のイメージを言うなら、この動画に託したい。
さてさて、そんな騒々しい東京のど真ん中であなた一人が慌てふためていても、世界は何も変わらんのだから、まぁゆっくり、うちの故郷で採れた静岡茶でも飲んでいきなさいや。
そうそう、そういえば私のこと話してなかったですよね~。
今日は私の自己紹介とRe:ゼロ(ディスカッションサークルゼロ)から始める異世界生活へ入ることになった経緯についてお話してみますかね。
あ、悪いんだけど後にしてッて?
まぁまぁ、そう焦らずとも世界は君をゆっくり待っているのですから。
さて、現在、
東京理科大学 経営学部経営学科 3年 在籍(今のところストレートですw)
している私ですが、
その昔は、薬学部薬学科に2年在籍しており、つまり薬剤師の卵でした。
え? いつの話?
そうですね。3年前の3月31日ですからね。薬学科を辞めたのは。
まぁ、どこの大学かは伏せておきますが、ちょっぴりゼロ入部への経緯へつながる話なので、お付き合いください(笑)
一年間の浪人生活を経て、不本意ながら第4志望くらいの薬学部に進学した私ですが、大学のカリキュラムや閉塞的で排他的な環境があまり好かなく、薬剤師への憧れもそこまで芽生えなかった私は大学での勉強に精が出ず辞めたわけです。
大学を辞める大きなきっかけは、第50回日本薬剤師会学術大会にサークル関連で知り合った薬学科の友人から紹介されて参加したことに始まります。
第50回日本薬剤師会学術大会 - コンベンションリンケージ (c-linkage.co.jp)
当時、既に勉強に対するモチベーションが急落しており、前期で6単位も落としていた私ですが、おあいにく留年既定の下限すれすれの状態でした。そんな中景気づけに参加しようと、その学術発表会に参加したわけですが、薬剤師の発表には目もくれず、企業のブースに入り浸りました。
そこで、エーザイ(株)やロート製薬(株)、それこそ今ワクチンで有名な世界的巨大製薬企業Pfizerの方とお話をして、お名刺を交換させていただき、今でも大事にとってあります。
エーザイ(株)の認知症治療薬の服薬サポートサービスやロート製薬(株)の女性用陰部軟膏の製品開発の過程などについてもお教えいただきました。顧客の状況を適切に調査し、製品開発につなげることに魅力を覚え、自分もこのように製品企画や市場調査に携わりたいと思うようになりました。要するに、セールスを行いたかったわけです。
そこから半年後、大学の勉強に尽力しますが、力及ばず留年が決まります。しかし、自分としては留年の2年目はうまく過ごせそうにないと判断し、大学を辞めることにしました。留年を決めた日から自分はもはや不眠症が続くことになります。。。
大学を辞めた当日の出来事をちょっと話しますか。それは先程申し上げたように3月31日のことです。つまり、次の日は4月1日です。
退学届をファイルに収めて大学へ赴いたその日は、晴れた生暖かい春の陽気でした。
奇しくも、その日は桜が五分咲きでしたかね。
東京都心の実家から飄々とした埼玉の田園の方へガタンゴトンっと電車で一時間ほど、窓を眺めながら聞いた曲がこの「君住む街へ」というオフコース(小田和正がVo.を務めていた伝説のバンド)の曲でした。
リリースが1989年というかなりの昔の曲なので、知らない方がいてもしょうがないですね。とりあえず、聞いてみて頂けたらと思います。
外はもう春、色々な人の門出をそろそろ祝おうなんて時なのに、自分はこの2年間何をやってきたのか?自分の人生は何だったのか?と思慮にふけり、この曲を聴いていました。
この曲自体は、冬に撮影されたもので、これから春を迎え、
「愛しい貴方が今まで想い出の詰まったこの故郷を離れどんなに遠くの街で暮らすことになっても、いつでも駆けつけるよ。愛し続けるよ。」
、そんなメッセージの籠った曲であるということが分かります。
つまり、別れの曲なのです。
春から喧噪まみれの新宿の予備校で一年通い、今の大学に進学することになるのですが、3月31日の、あの日のエピソードを話そうと思います。
~~~~~以下、2018年3月31日 東京郊外 某薬科大学○○キャンパスにて~~~~~
11:00くらいに大学に着いた私は、
自分「退学届です。」
学生支援課長「辞めるのね。でも、今年度末の手続きに追われてるから。もう少し早く来てほしかった。もう既に、学長とか他の課長さんに年度末の申請書類を提出しちゃったから。」
自分「すみませんでした。」
学生支援課長「14:00にもう一度持って来て」
そして、もう二度と来ることはないであろう図書館で時間をつぶし、
14;00に退学届と旧学生証を提出し、大学を無事年度内で退学することとなったのですが、これ恐ろしいのが、年度を超えていたら学費を支払うリスクがあったということでした。つまり、200万円を大学に在籍していないにもかかわらず、払わされる羽目になりそうだったと言うことです。
ただでさえ、退学で親は気分を害しており、学資保険を使い果たした状況でしたので、これ以上迷惑かけるなど、合わせる顔が欠片もないなと思ったほどでした。そのため、年度内に大学届を提出できたのは非常に助かった次第でした。
最後に、大学の最寄り駅に顔をのぞかせていた散り降る桜に一言。「さようなら。」
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埼玉の大学とは縁を切り、東京の大学へ再入学をすることになった私は、最初今の流行に遅れまいと躍起になっていた記憶がありました。当時よく聞いていた曲として、IZ*ONEの「Violeta」があります。この当時、IZ*ONEは既に半年程度活動してましたが、これで本格的にブレイクした感じになりましたね。
春先の開花にはもってこいの曲だと思います。
当時は「可憐に舞ってやる。」そんな気持ちがあったんだと思います。
さて、大学入学当初はESS(英語研究部)に入部し、英語力を伸ばそうと考えてました。2年目には総務・渉外を任されました。
しかし、同時にこの部活では先輩の代から受け継いだ伝統が重んじられるばかりで、
何か新しく面白いことを起こすことはこの場所では不可能だなと思うようになりました。
そして、組織を通して、爆発的な急成長を試みるのは無理だなという思いもあり、ESSを辞めることになります。
その後、ディスカッションができる場所はないかなと思い、Twitterで彷徨っていたところディスカッションサークルゼロを見つけ、即座にフォローしました。それからのこと、私のアカウントをかなり「いいね!」してくるのです(笑)
「なんや、このアカウント、うるさw 試験も終わったし、暇やから話でも聞いてみよw」
これがゼロのメンバー、細野さんとの最初の出会いとなります。
そんな細野さん、最初話した時はまじめな感じがどうにもこうにも取っつき辛く、ゼロへの不信感が当初はかなりありました。
しかし、ディスカッションへ見学に行った際に、衝撃を受けることになります!!!
【ゼロ活動報告】 2月1日『日本とドイツ 二つの戦後』|ディスカッションサークル ゼロ《Pando》
【ゼロ活動報告】 2月1日『日本とドイツ 二つの戦後』
それが、このテーマを取り扱った時のことでした。日本とドイツでの保証と補償の取り組み方の違いを見ていくうちにディスカッションを行う過程で、気が付いたら自分は見学者のはずなのにコメントし、議論に自然と参加していました。
いきなり高度なレベルで話が展開されて、これはただのサークルじゃないぞと驚いたほどであります。
そこから、自分から興味の持った分野を徹底的に調べ上げ、ディスカッションをリードしていきたいと思うようになりました。
そういえば、なんか4月から私は「学術」になるそうです。
具体的にどんなことを行っていくかは不明瞭ですが、
この喧噪な大東京を背に、体系的にディスカッションとは何ぞ?を突き詰めていく所存です。
そして、このサークルをより高いレベルで、
ナレッジベースからファクトベースまで、
テキストからデザインまで、
ミクロからマクロ視点へと、
コンサバからクリエイティブに
幅広く高度な議論を展開していく団体へ導くことが私の務めであります。
🌸最後に、私なりのゼロのキャッチフレーズを。🌸
「最高のCreative Communicating Cooperaitonを。
みんなの手でいざ青春を、いや盛春を。」
連絡先
メールアドレス | kibousakura0@gmail.com |
各種サイト一覧
ぴろぴろさん
記事拝見しました!いやーおもしろい。文才も達者なんですね。。
何か面白いことを!というところ、賛同です。僕もいろいろ提案していきますね!!
いえいえ、大久保さんが自信をつけてくださるからです。
私も頑張ります✊
イイ感じに尖ってて素晴らしい✨
(/ω\)イヤン、えっち変態!!!(喜び)
東京とは何ぞや?→一曲目
ガチで落ち込んだときに聞くと、救われる→二曲目
鮮烈ではかない春を味わいたいなら→三曲目
っていう感じです。