タイトルを見て興味を持ってくれた人も多いだろう。
ここでは 「そうめん人間(受動的な人間)」と「能動的な人間」
この2つの人間について深掘りしていきたいと思う。
読む前に勘違いして欲しくないのは、ここでの話は「絶対的」な話ではない。
僕の話を元に皆さんで議論して欲しい。
まずは、「そうめん人間」について定義してみる。
中学時代、僕は野球部に所属していた。
当時の記憶はただ一つ。
顧問の先生が非常に怖い😵
それだけだ。
何かミスをしたら怒られ、何か忘れ物をしたら怒鳴られ、何か言われたらよくわからないけど「はい!」と脳死で返事をする。こんな生活をしていた。
当時の僕たちは「能動性」「主体性」のかけらもなく
「先生にどうしたら怒られないか」「どうしたら楽をできるか」
それしか考えていなかったし、もっとひどい時は、
「先生のせいだ」「あいつのせいだ」
と責任をなすりつけていた。
今思い出しても情けない。
この話の僕のように、
・主体性がない
・負の感情で動いている
・物事にかける想いが弱い
・自分を守っている
・言い訳をする
こんな人間を「そうめん人間」と定義しよう。
やっと「そうめん人間」の定義ができた。
「周りに流される」という言葉をそうめんに言い換えたわけだ。
次に「能動的な人間」について定義してみる。
高校に上がった僕は高校野球に足を踏み入れた。
そこは、今までの常識を覆すような発見ばかりだった。
・わからなかったら「わかりません」としっかり言うこと
・先生に言われてからやっているようじゃ成長はないこと
・言い訳ほど自分を成長を止めるものはないこと
・目標が明確であること
・頭を使うこと
こんなことを教わった。
正直面食らった。
頭を使うから肉体的な疲労だけでなく、精神的な疲労まで感じる。
わからないことを流すのではなく、一度立ち止まって理解することで、同じ失敗をしなくなる。
自分たちで「こんな練習をしたい」と言う想いが詰まった練習は、成長スピードが全然違う。
当時の自分は中学の自分とは正反対の人間だっただろう。
友人にも「お前変わったな」と言われるほどだった。
こんな人間を「能動的な人間」と定義しよう。
前置きが長くなったが、「そうめん人間」と「能動的な人間」について自分の経験をベースにまとめてみた。
いかがだろうか。
「能動的な人間になろう!」と思っただろうか。
それだと、あなたは「そうめん人間」のままだ。
あえてこの場で「能動的な人間になろう」なんてことは僕は言うつもりはない。
実はこの文では「そうめん人間か能動人間か」という話をしたいのではない。
いきなり裏切った形になってしまったが、僕が本当に伝えたいことは
「自分の人生をもっと多角的に考える必要性がある時代に僕たちはいる」
ということだ。
多角的に考える一つの題材として「そうめん人間」と「能動的な人間」を取り上げたまでだ。
それらしい「正義」がその辺に転がっている時代に、
「自分なりの正義とは?」「自分って一体どんな存在なの?」
などを追い求めて欲しい。
いろいろな情報を元にもっと考えて欲しい。
僕の文章に対しての異論でも、些細なことでもいい。
この時代に生きる上で、必要なことは何かを。