あなたの心の中にいる「チー牛」。

チー牛。

この言葉をきいてあなたは何を思い浮かべるだろうか。

そもそも意味が分からないひともいるだろう。


チーズ牛丼を思い浮かべた人もいるだろう。むしろその方が多数ではないだろうか。


しかし、ある界隈、その名もTwitterランドでは「チー牛=陰キャラ」という意味を持つのだ。


なぜか。元ネタはご存じの通りこの画像だ。


チー牛とは

・煙草を吸わない
・ギャンブルをやらない
・低身長
・実年齢にそぐわず、中学生のような幼い顔つき
・そして精神的にも幼い
・覇気のない顔
・極度に度が強いメガネをかけている

そして、

・チー牛を頼みそう

といういわゆる「陰キャラ」の代名詞のように使われているのだ。


さてチー牛を頼むやつがなぜ「陰キャラ」ぽいのかという議論の方向にも進めてみたいのだが、まず今回の記事ではそもそも、チー牛の本質である「陰キャラ」というものにスポットライトを当ててみた。


「陰キャラ」はなにをもって「陰キャラ」となすのだろうか。

今回は、いろんな偏見や先入観を排し、迫ってみようと思う。


そして、記事を読み終わる頃には、あなたの心の中にいる「チー牛」。という意味が分かるようになっているだろう。



1:そもそも「陰キャラ」の「陰」ってなんだ?

まずはここから迫りたい。

さくさく行くためにここで「陰=暗い」と定義してみた

そこで「暗い」という意味を調べてみると以下のようなものが出てきた。


思った以上に意味があって分かりにくい。

さらにこれを統合してみると

大体3の意味と4の意味に集約されるのではないかと考えた。(ここは個人の見解である)


人の性格における「暗い」というのは

・気持ちが晴れ晴れせずに沈み込んでいて、それを人に印象を与える感じ

・人に触れられたくない印象を与える感じ

ここらへんを指すのではなかろうか。


そしてその理由としては(5-9の理由)

希望が持てていない

・知識が乏しい

・不足している

があげられるようである。


ここの考察は後の結論にも大きく関わるので覚えておいてほしい。


2:「陰キャラ」を分類してみた

次に、日常で使われている「陰キャラ」という言語を大まかに分類してみようと思う。


2つのやり取りを参考に挙げてみた。

1つ目は「俺、陰キャやでw」と陰キャラを自称するときである。

それを自分と言った相手が本当に「陰キャラ」と思っているかどうかで分けてみた。


以上の通り、同じ「陰キャラ」という言葉でも意味合いが大きく変化している。


さて2つ目は、相手を「陰キャやんw」と評価を下すときである。

上に同じく自分と言った相手が本当に「陰キャラ」と思っているかどうかで分けてみた。

こちらも同じ大きく「陰キャラ」の意味合いが変化するのだ。

さて、なぜこんだけ同じ「陰キャラ」という言葉で意味合いが変化するのだろうか?


これは先ほど言った、「暗い」の意味が関係しているのではないだろうか。


・気持ちが晴れ晴れせずに沈み込んでいて、それを人に印象を与える感じ

・人に触れられたくない印象を与える感じ


この2つが「暗い」という印象を与えるようなのだが、両者とも「そう見える」というのが論拠なのだ。


つまり、結構不確実なものを基に「陰」とみなしている


そして理由として挙げていたこちらの3つも

希望が持てていない

・知識が乏しい

・不足している

これは、人によって何が不足しているかや希望を持ててないかどうかを自分の認識(見えている)の範囲で判断してしまうため、どうしても他人とずれてしまう。


つまり、お互い不確実でかつずれやすいものを持ち込むため、同じ「陰キャラ」という言葉で意味合いが変化するのだと思う。


3:あなたの心の中にいる「チー牛」。

さて、「陰キャラ」という意味合いが結構不安定なものというのを明らかにしたうえで、今回の締めに向かおうと思う。


結論を先にここでいうと、

誰でもみんな心の中に「チー牛」がいる。

ということだ。


お、どういうことだ。と思う人が多いかもしれない。

でも僕はこれを割と真理だと思っている。


なぜならこの世にいるだれもが

希望が持てていない

・知識が乏しい

・不足している

いずれかを必ずいつも抱えているからだ。

トータルでどうかということではなく、少なくとも一部はそうということなのに注意してほしい。


例えば、僕の場合だと、地理学や経済学、起業、語りなどに関しては、希望も知識も充足していると思っている。

そういう環境では明るく、いわゆる「陽」としてのふるまいが出来るのだ。


しかし、周りの環境が例えば、医学や量子力学、形而上学など全くわからない、つまり知識もくそもない不足した状態になるとたちまち、僕は不安まみれで何もしゃべれなくなり「陰」のふるまいになるだろう。



その時、ぼくは周りの人に

・気持ちが晴れ晴れせずに沈み込んでいて、それを人に印象を与える感じ

・人に触れられたくない印象を与える感じ

を与えるだろう。


つまりこの時のこの状態こそが僕の心の中の「チー牛」が現れたときなのだ。


これは、僕だけが体験していることではなく、今読んでいるあなたもどこかで体験したことがあるのではないか。


故に、僕は

誰でもみんな心の中に「チー牛」がいる。

と思うのだ。

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納得してもらえただろうか?笑

ただの持論であるし、ここから本当にそうなのか自分なりに考えてほしいと思う。


最後に

・お互い不確実でかつずれやすいものを持ち込むため、同じ「陰キャラ」という言葉で意味合いが変化する

誰でもみんな心の中に「チー牛」がいる。

という考察がある程度合っていると仮定した上で、この知識を役に立てるにはどうすればいいかを置き土産として残そうと思う。



「陰キャラ」という概念は個人に宿るものではなく他人比較や他人からのレッテルで生じることがある。

もちろん、ある一面が本当に「陰」の場合があるかもしれない。(先ほどの例のように)

しかし、その比較や烙印はひどく一面的だったり、不確実なものなのだ。


それにも関わらず、人はそれを必要以上に気にしてしまったり、自分の中で勝手に無駄に高い「陰キャラ」基準を作ってしまうことがある。時にそれは、自傷行為にまで発展することがあるし、自信喪失にもつながることもある。


そのときは、あなたの心の中にいるチー牛が暴れすぎているときである。


そのチー牛の手綱をあなたはしっかりと握ってやらなきゃならない。

レッテルは相手の価値基準でしかない。君の心の中のチー牛は君にしかわからない。


いきなり他の人の意見を気にせずに生きるのは難しいかもしれない。

それでも、僕は少しずつでもこの記事によって、あなたの心の中のチー牛がいることを認識し、正体を少しでもつかんでみてほしいと思う。そして、うまく手綱を握るきっかけをつかんでほしいと思う。


そして、少しでもあなたが自信を持って生きてほしいと願っている。



チー牛と共にあらんことを。



【FIN】  著:山本周雅

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