こんにちは、そーたです!
先日、とても久しぶりに運転しました。たぶん1か月くらい空いてたかなと思います。
「まあ1か月くらいなら感覚鈍ってないでしょ」と思いながらいざ乗車!
うん?あれ?「発進の仕方は、、、、、。。。あ、、、笑」
完全に初歩の初歩から忘れてましたね笑笑
流石に焦りました、こんなにも覚えてないものなのかと笑
その日が祝日ということもあり、隣に父が乗ってくれていたので横から囁いてくれましたけど、完全に呆れられてました笑笑
ですが、いざ運転してみれば意外と感覚は戻ってくるもんです。
無事に何事もなく(最初を除いては、、、)家に戻ることができました。
何事も続けないと身につかないもんですね!
さて、今回は真新しい話、スタディツアー(以下、「スタツア」と書かせていただきます)で感じたことについて書こうと思います。
今月の5日に日本を飛び立ち14日までカンボジアに渡航していました。
なんと、これが初海外!初海外でカンボジアはかなり稀な感じがしますが、僕にとってはむしろ初海外の渡航先がカンボジアで良かったなと思えるくらい、充実した10日間でした。
この10日間で本当に様々なことを学べたので順を追って書いてしまうと、一冊の単行本ができてしまうのでは?と思うくらい長くなってしまうので、観光編と学校編の2部構成で今回のスタツアで感じたことを書いていこうと思います。
観光編
今回のスタツアで訪れた観光名所は、「トゥールスレン刑務所」「キリングフィールド」「王宮」「オールドマーケット」「アンコールワット」の5箇所です。
その中で特に印象深かった「トゥールスレン刑務所」「キリングフィールド」について書こう思います。
「トゥールスレン刑務所」
ここは元々高校の校舎でしたが、ポル・ポト政権時代(1975年4月~1978年12月)に入ると無実の罪の人々を収容するための刑務所と化した場所です。当時、食糧を確保するためポル・ポトは都市部の人々を農村へ移し、強制労働をさせましたが、「学生・教師・技術者・医者」は国の再興の手助けという名目でトゥールスレンに連れてこられました。ですが、それは表向きの名目に過ぎませんでした。実際は「知識人は当政権の妨げになる」という思想のもと、拷問や虐殺をされたのです。
この施設で何が行われていたか、どんな尋問をしていたのか知った時は鳥肌が止まりませんでした。尋問室には、茶色く錆びたベッドと鉄製の棒に繋がれたとても小さい円形の2つの鎖が置かれていました。あの鎖の大きさからすると、「子どもを拘束するための道具だったのかな」と思っていましたが、そんなことはありませんでした。なんと、大人を拘束するために足首を固定する道具だったのです。想像してみてください。安全性を考慮して作られた、下半身がすっぽり埋まる幼児用ブランコを成人男性が使うようなものです。そんなことあり得るわけないじゃんと思いましたが、尋問室の壁には証拠となる絵が飾られていました。つまり、大人の足首の太さが子どもの太さと同じくらいまで細かったということです。それほどまでに食事が与えられていなかったということでしょう。碌に食事が与えられないうえに、人を吊るし上げるといった凄まじい拷問。今では考えられないことが約50年前のカンボジアで当たり前だったのです。ポル・ポトは何故こんなにも残虐な行為をしたのか、どのような背景があったのかなどカンボジアの歴史について更に詳しく知りたくなった一時でした。
「キリング・フィールド」
キリング・フィールドとはポル・ポト政権時代に大量虐殺が行われた刑場跡の俗称です。僕がこの場所において特に衝撃を受けたのが、通称「キリングツリー」と呼ばれる沢山のミサンガがかかった大きな木を見た時でした。「キリングツリー」は小さな子どもを処刑するのに使われていたもので、なんと子どもの足首を持って彼らの頭を木に打ち付け、処刑していたそうです。そのため少し目線を上げると、ある部分だけ黒く不気味な色の跡が残っていました。想像すらしたくありませんでした。今思い返すだけでも気分が悪くなりそうです。人間が罪のない人間を殺す、そんなあってはならない行為が平然と行われていた場所です。もう2度と同じようなことが繰り返されませんように。
学校編
カンボジア渡航の何か月も前から楽しみにしていた学校訪問。
「途上国の子どもたちに携われる支援をしたい」という想いが、私が国際協力団体に入ろうと思ったきっかけだったので、その想いを実現でき肌で感じられる環境に行けるということは何よりも嬉しかったです。
「途上国の子どもは飢えに苦しみ現生活に不満を抱いている」という固定概念が心の底に残っている状態でグラフィス小中学校の門をくぐりました。バスの中で揺られながら、「そんな子どもたちにどんな感じで接すればいいのか」と心も揺れていました。しかし、そんな事を考えるのは時間の無駄だったようです。車窓から少し顔を覗かせると、満面の笑みでこちらに大きく手を振ってくれる溢れかえる子どもたちの姿が!その姿を見た瞬間、嬉しさと安堵と懐疑の気持ちが入り混じり少々複雑な感情を抱きました。そしてバスを降りると、目を輝かせながらこちらに走ってきて僕の手を握りにきてくれたんです。そしてあっという間に、はないちもんめをしてるんじゃないかと思うくらい何人もの子どもが手を繋いでいたんです。
そんな状況、皆さんは想像できますか?日本では考えられないと思います。急に知らない外国人の団体が、自分の通う学校に来て何かしようとしている人に満面の笑みで迎えることができるでしょうか?手を繋ごうと思うでしょうか?年齢も居住環境、慣習も違うから比較しようがないと思う方もいると思います。まさにその通りですが、しようと思ってできることでしょうか?そんな気持ちから私は、子どもたちの行動のその背景には何か隠されているのではないかと感じました。しかし、そんなロジカル的な思考をしていては子どもたちと素で関われないんじゃかと思い、まずは全力で子どもと楽しむことにしようと決めました。
4日間に亘り学校訪問をしましたが、いつどんな時も私たちの傍には子どもたちがいました。言語が通じないという大きすぎる壁がある中、一緒に全力で遊び、笑い、時には話しました。(話そうとした、が正しい解釈かな?)そしていかなる時にも子どもたちの顔には「笑顔」があったんです。「この子たちは何でこんなにも笑っているんだろう?」と終始思っていました。その理由を私なりに考えました。「この子たちが笑っているときには必ず私たちも笑ってる。もしかしたら、この子たちは私たちが笑っているから笑っているんじゃ、、?」と。どこか先入観みたいのがあるかもしれませんが、今振り返ってみるとそう感じるんです。
学校訪問が終わったある1日、いつも通りバスに乗り込み宿泊施設に向かう帰り道。ぼーっと外を眺めていたら麻袋を肩に担ぐ多くの子どもたちの姿が。児童労働です。
彼らの顔には何の表情もありませんでした。10歳にも満たない子どもが何キロとある袋を担ぐその姿。児童労働がなぜ問題なのか?日本と何が違うのか?もし興味があれば調べてみて欲しいです。
つい先ほどまで見ていたあの笑顔とのギャップに驚きました。おそらく学校に通っていたあの笑顔で溢れた子どもたちも一歩学校の外に出ると、顔に色がなくなってしまっているのではないかと悲しくなりました。学校は子どもたちにとって、やりたいことが概ねできる(まだまだ発展途上ではありますが)環境にあり、学校外は家事労働を始めとした自分の意思と反することをしなければならないそんな状況が今、直面しているのだと。
そんな彼らに私は何ができるだろうか。
まずは、私たちが笑っていなければいけないと思いました。今回の学校訪問で様々な現状課題が浮き彫りになり、それを改善していくためにこれまで以上に大変になっていくと思います。しかし子どもたちと接するときは幾ら大変で辛い状況にあったとしても、私たちが笑っていなければ子どもたちの顔は徐々に色が失われていくかもしれません。
「 笑顔は鏡 」そう僕は思います。
学校・学校外含め子どもたちが望む環境を届けられることが本望です。しかし、あまりにも規模が大きすぎるうえ、それを実現するための人手も資金も足りていません。なので、せめて学校内は「やりたいことができる」、そんな最高の教育環境を届けたいと思いました。私たちにできることはまだまだあります。私たちがやらないで誰がやるんでしょうか?そんな人任せの支援はしたくありません。「自分がやる。自分が関わる。」そんなハングリー精神を持ち続けていきたいと思います。
「人生は自分の思い通りになんかならないと思っている人は、自らが思い通りにならないことを望んでいる人です。」 ジョセフ・マーフィー
先日、とても久しぶりに運転しました。たぶん1か月くらい空いてたかなと思います。
「まあ1か月くらいなら感覚鈍ってないでしょ」と思いながらいざ乗車!
うん?あれ?「発進の仕方は、、、、、。。。あ、、、笑」
完全に初歩の初歩から忘れてましたね笑笑
流石に焦りました、こんなにも覚えてないものなのかと笑
その日が祝日ということもあり、隣に父が乗ってくれていたので横から囁いてくれましたけど、完全に呆れられてました笑笑
ですが、いざ運転してみれば意外と感覚は戻ってくるもんです。
無事に何事もなく(最初を除いては、、、)家に戻ることができました。
何事も続けないと身につかないもんですね!
さて、今回は真新しい話、スタディツアー(以下、「スタツア」と書かせていただきます)で感じたことについて書こうと思います。
今月の5日に日本を飛び立ち14日までカンボジアに渡航していました。
なんと、これが初海外!初海外でカンボジアはかなり稀な感じがしますが、僕にとってはむしろ初海外の渡航先がカンボジアで良かったなと思えるくらい、充実した10日間でした。
この10日間で本当に様々なことを学べたので順を追って書いてしまうと、一冊の単行本ができてしまうのでは?と思うくらい長くなってしまうので、観光編と学校編の2部構成で今回のスタツアで感じたことを書いていこうと思います。
観光編
今回のスタツアで訪れた観光名所は、「トゥールスレン刑務所」「キリングフィールド」「王宮」「オールドマーケット」「アンコールワット」の5箇所です。
その中で特に印象深かった「トゥールスレン刑務所」「キリングフィールド」について書こう思います。
「トゥールスレン刑務所」
ここは元々高校の校舎でしたが、ポル・ポト政権時代(1975年4月~1978年12月)に入ると無実の罪の人々を収容するための刑務所と化した場所です。当時、食糧を確保するためポル・ポトは都市部の人々を農村へ移し、強制労働をさせましたが、「学生・教師・技術者・医者」は国の再興の手助けという名目でトゥールスレンに連れてこられました。ですが、それは表向きの名目に過ぎませんでした。実際は「知識人は当政権の妨げになる」という思想のもと、拷問や虐殺をされたのです。
この施設で何が行われていたか、どんな尋問をしていたのか知った時は鳥肌が止まりませんでした。尋問室には、茶色く錆びたベッドと鉄製の棒に繋がれたとても小さい円形の2つの鎖が置かれていました。あの鎖の大きさからすると、「子どもを拘束するための道具だったのかな」と思っていましたが、そんなことはありませんでした。なんと、大人を拘束するために足首を固定する道具だったのです。想像してみてください。安全性を考慮して作られた、下半身がすっぽり埋まる幼児用ブランコを成人男性が使うようなものです。そんなことあり得るわけないじゃんと思いましたが、尋問室の壁には証拠となる絵が飾られていました。つまり、大人の足首の太さが子どもの太さと同じくらいまで細かったということです。それほどまでに食事が与えられていなかったということでしょう。碌に食事が与えられないうえに、人を吊るし上げるといった凄まじい拷問。今では考えられないことが約50年前のカンボジアで当たり前だったのです。ポル・ポトは何故こんなにも残虐な行為をしたのか、どのような背景があったのかなどカンボジアの歴史について更に詳しく知りたくなった一時でした。
「キリング・フィールド」
キリング・フィールドとはポル・ポト政権時代に大量虐殺が行われた刑場跡の俗称です。僕がこの場所において特に衝撃を受けたのが、通称「キリングツリー」と呼ばれる沢山のミサンガがかかった大きな木を見た時でした。「キリングツリー」は小さな子どもを処刑するのに使われていたもので、なんと子どもの足首を持って彼らの頭を木に打ち付け、処刑していたそうです。そのため少し目線を上げると、ある部分だけ黒く不気味な色の跡が残っていました。想像すらしたくありませんでした。今思い返すだけでも気分が悪くなりそうです。人間が罪のない人間を殺す、そんなあってはならない行為が平然と行われていた場所です。もう2度と同じようなことが繰り返されませんように。
学校編
カンボジア渡航の何か月も前から楽しみにしていた学校訪問。
「途上国の子どもたちに携われる支援をしたい」という想いが、私が国際協力団体に入ろうと思ったきっかけだったので、その想いを実現でき肌で感じられる環境に行けるということは何よりも嬉しかったです。
「途上国の子どもは飢えに苦しみ現生活に不満を抱いている」という固定概念が心の底に残っている状態でグラフィス小中学校の門をくぐりました。バスの中で揺られながら、「そんな子どもたちにどんな感じで接すればいいのか」と心も揺れていました。しかし、そんな事を考えるのは時間の無駄だったようです。車窓から少し顔を覗かせると、満面の笑みでこちらに大きく手を振ってくれる溢れかえる子どもたちの姿が!その姿を見た瞬間、嬉しさと安堵と懐疑の気持ちが入り混じり少々複雑な感情を抱きました。そしてバスを降りると、目を輝かせながらこちらに走ってきて僕の手を握りにきてくれたんです。そしてあっという間に、はないちもんめをしてるんじゃないかと思うくらい何人もの子どもが手を繋いでいたんです。
そんな状況、皆さんは想像できますか?日本では考えられないと思います。急に知らない外国人の団体が、自分の通う学校に来て何かしようとしている人に満面の笑みで迎えることができるでしょうか?手を繋ごうと思うでしょうか?年齢も居住環境、慣習も違うから比較しようがないと思う方もいると思います。まさにその通りですが、しようと思ってできることでしょうか?そんな気持ちから私は、子どもたちの行動のその背景には何か隠されているのではないかと感じました。しかし、そんなロジカル的な思考をしていては子どもたちと素で関われないんじゃかと思い、まずは全力で子どもと楽しむことにしようと決めました。
4日間に亘り学校訪問をしましたが、いつどんな時も私たちの傍には子どもたちがいました。言語が通じないという大きすぎる壁がある中、一緒に全力で遊び、笑い、時には話しました。(話そうとした、が正しい解釈かな?)そしていかなる時にも子どもたちの顔には「笑顔」があったんです。「この子たちは何でこんなにも笑っているんだろう?」と終始思っていました。その理由を私なりに考えました。「この子たちが笑っているときには必ず私たちも笑ってる。もしかしたら、この子たちは私たちが笑っているから笑っているんじゃ、、?」と。どこか先入観みたいのがあるかもしれませんが、今振り返ってみるとそう感じるんです。
学校訪問が終わったある1日、いつも通りバスに乗り込み宿泊施設に向かう帰り道。ぼーっと外を眺めていたら麻袋を肩に担ぐ多くの子どもたちの姿が。児童労働です。
彼らの顔には何の表情もありませんでした。10歳にも満たない子どもが何キロとある袋を担ぐその姿。児童労働がなぜ問題なのか?日本と何が違うのか?もし興味があれば調べてみて欲しいです。
つい先ほどまで見ていたあの笑顔とのギャップに驚きました。おそらく学校に通っていたあの笑顔で溢れた子どもたちも一歩学校の外に出ると、顔に色がなくなってしまっているのではないかと悲しくなりました。学校は子どもたちにとって、やりたいことが概ねできる(まだまだ発展途上ではありますが)環境にあり、学校外は家事労働を始めとした自分の意思と反することをしなければならないそんな状況が今、直面しているのだと。
そんな彼らに私は何ができるだろうか。
まずは、私たちが笑っていなければいけないと思いました。今回の学校訪問で様々な現状課題が浮き彫りになり、それを改善していくためにこれまで以上に大変になっていくと思います。しかし子どもたちと接するときは幾ら大変で辛い状況にあったとしても、私たちが笑っていなければ子どもたちの顔は徐々に色が失われていくかもしれません。
「 笑顔は鏡 」そう僕は思います。
学校・学校外含め子どもたちが望む環境を届けられることが本望です。しかし、あまりにも規模が大きすぎるうえ、それを実現するための人手も資金も足りていません。なので、せめて学校内は「やりたいことができる」、そんな最高の教育環境を届けたいと思いました。私たちにできることはまだまだあります。私たちがやらないで誰がやるんでしょうか?そんな人任せの支援はしたくありません。「自分がやる。自分が関わる。」そんなハングリー精神を持ち続けていきたいと思います。
「人生は自分の思い通りになんかならないと思っている人は、自らが思い通りにならないことを望んでいる人です。」 ジョセフ・マーフィー