高度情報化社会で勝ち抜く人

 現代は高度情報化社会などといわれる。誰もが感じ取っているようにインターネット上には情報があふれ、ひと昔前だったら手に入らなかったような情報や手に入れるのに多大なコストが必要だった情報に、今では誰でもが簡単にアクセスできる。

 ちょっと前までは、企業の業績を調べるには大きな大学の図書館に行かないといけなかったし、海外の研究論文を見つけるには引用を何度もたどって適切なタイトルのものを探す必要があった。こうしたことが今ではGoogleの検索窓に単語をいくつか並べるだけで可能になっている。

 それでもこれまでは、こうして集めたデータから法則性を見出すのは人間による特殊なワザとされていた。だから、データから規則性を見出して統計技術で検証することができる人材が必要とされてきた。もうひとつ、情報技術を作って引用する側、要するにプログラマーは相変わらず人間が必要とされてきた。そう考えると、「情報化社会で勝ち抜く人」はこうした人たちだろうかという意見が出るだろう。

 しかし近年では、これさえも情報技術にとって替わられようとしている。ディープラーニングなどの一部の手法ではデータの規則性の発見をも可能な人工知能が出てきているし、プログラミングも機械語からより離れて誰もが使いやすい高級言語化が進みつつある。コードの自動生成の研究も進んでいて、ちょっとしたWebサイトの構築ぐらいなら、プログラミングが一切できなくてもこうしたコード自動生成のシステムを利用することで可能になってきている。

 そうすると、データの処理やプログラミング言語が(世界トップレベルであればもちろんいつまでも需要があるが)人並みに扱えるというだけでは情報化社会で必要とされ続ける人材にはなれないと予測される。

 それでは、今後いっそう情報通信技術が進展していく中で勝ち抜く人はどんな人か。

 もちろん、ずば抜けた創造性があるといった例外中の例外の人はどんな世界でも勝ち抜く。そうではなく、ごく普通の一般人が情報化社会を生き抜いて勝ち抜くためには、どんな努力をすればよいだろうか。あるいはどんな人材になればよいのだろうか。

 結論を先取りすると、高度情報化社会で必要となるのは、「誠実で自分勝手でない人間」となると予想される。なんだ、綺麗事かよと言われそうだが、論理的にそうなるのである。絶版になってしまってほとんど手に入らない清水龍瑩著『ソファで読む経営哲学』(慶応通信, 1994年)を思考の参考にして考えていく。

 まずデータの加工や処理、システムの構築さえもが誰でもできる簡易なものに近づいたとき、優位性をもたらすのは持っているデータの質と量である。このときデータは誰にとっても手に入りやすいのが「情報化社会」であったはずだ、と思われるかもしれない。だが、データがインターネットで流通するためには、きちんとした(構造化された)文章になっている必要があり、人間の頭の中のモヤモヤした考えをそのままデータにすることはしばらくはできそうにない。

 そうすると、「加工済みのデータ」は誰でも手に入れられるのだが、人の頭の中にある段階の「加工されていないデータ」は人と人との交流の中でしか手にいれられない。そして、加工されていないデータはいまだ流通していないという希少性と先発性がある上に、相互に意見を交換する中で多様な解釈が生まれるという意味で質的に豊かな情報でもありうる。

 このとき、お互いが持っている頭の中の情報をどんな人になら開示するかといえば、やはり「誠実で自分勝手でない人間」となるだろう。一方的にこちらの情報を利用ばかりしてこちらの都合を考えないような人間には誰も情報を出したくないし、たとえ最初はそういった人に情報が集まっても、徐々に騙される人間の数は減っていく。反対に、常に他者に気配りして、他者のために多少は損してもいい、そして自分がお世話になったらその分きちんと返す、という人には「この人にはひと肌くらい脱いであげよう」という人が集まるだろう。

 だから結局、加工前の豊富な情報を手にするのは誠実な人間であって、そうした人間が希少資源を集め、高度情報化社会において活躍すると考えられるのである。

 もちろん、今はそこまで綺麗に社会は回っていないかもしれない。それでも少しずつ「正直者が馬鹿を見ない社会」に近づいていくという希望も持てるのだ。

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