「いい人」と「どうでもいい人」:ハーバード・ビジネス・レビュー掲載研究から考えるPando

 身の回りで「あの人は頭がいい」とか「あの人は鋭い」といった評価を受けている人はいるだろうか。もちろん、そうした人が本当に頭の回転が速くて知識が豊富だということもありうる。しかし、ハーバード・ビジネス・レビューに掲載されたAmy Cuddyによる研究によれば、多くの場合こうした評価は実際の能力にもとづいていないそうだ。

 彼女の研究によれば、「良い人」として評価されるような行動をおこなう者は、ある意味では当然の結果として周囲から「親切で心根があたたかい」と評価されるが、同時に「頭の回転が遅い」「頭が悪い」と評価される確率が高まるのだという(Just Because I'm Nice, Don't Assume I'm Dumb, Harvard Business Review, 2009)。

 たとえば、他人の話を全否定する、他人の話をさえぎって自分の主張を押し通す、ときに大声を出す、怒りをぶちまける、といった行動が「有能だ」という評価につながり、逆に「相手を尊重する」「相手の意見とりあえず最後まできいてみる」「相手が間違っていると思っても目の前で指摘しない」といった行動は「良い人だが有能ではない」という評価につながってしまうという。

 つまり、頭がいいとか鋭いといった評価を受けている人は、単に冷徹な行動をとっているだけだという可能性もあるということだ。ここからがアメリカらしい(?)のだが、Amy Cuddyの研究は「いかにして有能とみられるようにするか」というテーマに移っていく。そのために必要な身振り手振りの研究や表情などの研究が現在のアメリカではおこなわれている。

 たしかに、人間の中に表面的な行動によって評価が左右されてしまう心理的側面があるのならば、それを利用するしかないのかもしれない。しかし、こうした状況に何となく違和感を覚える人もいるだろう。少なくとも私は、そうした表面的な評価は社会全体にとってプラスではないと感じてしまう。表面的な演技をして上手いこと利益を誘導することに長けた人の下に人や仕事が集まってしまうと、地道な努力はまったく報われないということになる。もちろん、「だからこそみんな演技力を身に着けましょう」というのも一理はあるのだが、そのために投下される時間と労力は果たして有意義なのだろうかと疑問に思ってしまう。

 もし、そんな演技をしなくてもその人の人柄や能力が分かるのならば、あるいは演技をしてもすぐにばれるような仕組みがあるのならば、ここで書いてきた不合理はなくなるはずだ。たとえば、その人の目標やビジョン、そのビジョンの下で日々どんなことをやっているのか、その人のヒストリー、その人の周りにどんな人たちがあつまっているのか、といったことが分かるようなものがあればこうした不合理はなくなるかもしれない。

 そう考えていて、そうだそれこそPandoじゃないか、と思ったのだった。

児島 誉人
2020.06.01

「批判=主張」とする社会に違和感を感じます。それを助長する動きや、そのような人をプラスに感じる人間の危うさがあることを初めて知りました。

記事を拝読し、7つの習慣の冒頭部分を思い出しました。個性主義と人格主義。直近の50年に出版された成功に関する文献は、社交的なイメージの作り方やその場しのぎのテクニックが多く、人への見せ方や振る舞いに終始していると。そのようなことに時間をかけて、演技することで、何を得られるのかと考えてしまいます。

見せかけの人間関係に、本物の信頼関係が構築できるとは思えないです。テクニックに逃げず、Pando で本物の人間関係を取り戻したいと改めて思いました。

岩尾俊兵
2020.06.01

コメントいただきありがとうございます。
実は、これへの解答のようなものを、今から100年前のメアリー・パーカー・フォレットという人の論考の中に発見しました。
それについても次回Pandoで書いていきたいと思います。

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