メアリー・パーカー・フォレットという女性がいる。1900年代初頭に活躍した経営学者で、ピーター・F・ドラッカーなど多くの思想家や経営者に影響を与えた人物だ。彼女の代表著作は『創造的経験』という本で、そこではマネジメントとは何かということが語られている。
最近この『創造的経験』を読んでいて、考えたことがあった。それは「どうすれば働く人がみんなイキイキしている組織ができるのか?」というものだ。これに関して、フォレットは『創造的経験』の中でいう「統合」の重要性を説いているのだが、これが思考の出発点になる。
ここでいう統合とは「様々な人の考えを総合して別の考えを生み出すこと」と言えば分かりやすいかもしれない。人はみんなそれぞれ別々の家庭環境で育ち、得意科目があり、好きなものがあり、違う場所に住み、色んな本を読んだり実地の経験を積んでいたりする。だから、必然的に人が集まるとみんなが違った考えを持っている。
そのため、「考えの違う人の間で上手く調整する」必要がある。実際に、組織で働いたことのある人(特に中間管理職的な人)であれば、仕事の大部分が計画と調整で終わるという実感を持っていることが多い。「○○という反対が出たので計画を修正して~」とか「××さんの部署の協力が必要になったので連絡して~」といった具合である。
このような調整の結果、仕事は回っているとも言えるし、調整の過程であまりにおかしな案は消えていくので「フィルター」としての役割があるなどと言われる。その一方で、調整というのは直接価値を生んでいる時間ではないと思う方も多いだろう。それどころかちょっと考えてみるだけでも、調整は有害である場合もあることが分かる。たとえば、文句ばかりを言う声の大きな人に従っていると、仕事が何も進まないということもあるだろう。あるいは、仮に優秀な人が集まったとしても、それぞれが違ったことを言うので、その共通点を探った結果として、元の斬新なアイデアが凡庸なものへと変化することもありうる。いわば「妥協の産物」である。
上の図にあるように、たとえば3人が集まってそれぞれが違った知識を持っていても、その重複部分だけ(全員が納得できる部分だけ)を採用すれば、3人の知識の和どころか1人の独裁よりも狭いアイデアとなる。論理学の言葉を使って、論理積的帰結と名付けることもできるだろう。
それでは、調整はすべて無駄なのだろうか? 多くの人は「そうなんだよ、会議の結果いっつもしょうもない結論に至るんだよ」と思っていることだろう。その一方で「いやいや、ディスカッションしているうちにすごいアイデアが出たこともあるよ!」と反論したくなる人もまた多いだろう。実は、議論の結果には「論理和的帰結」と言えるもののあるからだ。これは、たとえば3人がそれぞれ議論しているうちに、それぞれの専門分野を利用しあってより大きなアイデアに至るというような場合である。
そしてフォレットは調整のうちこうしたより大きなアイデアに至るものを「統合」と呼んだ(と私は理解している)。こうした統合的な調整であれば価値を生んでいるといえるだろう。しかも、このような統合の経験はまさに「創造的経験」として、新しい考えを生んでいる感覚を与えてくれ、仕事や活動への「やりがい」につながる。たとえば自分の意見を会議で発言するたびにアイデアを卑小なものへと変化させられるとガッカリするだろうが、その反対に会議のたびに建設的な意見をもらえてアイデアがより良いものに変わったなら、会議が楽しくなるだろう。こうしたことは誰しも容易に想像できると思われる。
そのため、この統合は組織・会社にとっても、個人にとっても、社会にとっても有意義なものなのである。それではなぜ統合=論理和的調整ばかりでなく、妥協の産物=論理積的調整がおこなわれてしまうのだろう。その差を生むカギは今後くわしく研究していくが、直感的には「ビジョンがあるかどうか」「ビジョンでつながった人たちで議論しているかどうか」ではないかと考えている。本当はビジョンで共鳴していないのに、地位のため、保身のため、短期的利益のためにつながっている人たちであれば、互いに尊重しあって楽しく仕事をすることはできないだろう。反対に、たとえ会議では厳しい意見を言い合っても、心の底のビジョンでつながっていれば、根本のところで尊重しあって建設的な意見が出せるだろう。
人は多くの時間を仕事に充てる。だからこそ「創造的経験」を得られるような仕事をすることが人生の満足の大部分を決定することとなるのである。
企業のビジョンがイノベーションを生むといいますが、その根幹は個人のビジョンによる創造的経験によってイノベーションが生み出されるのでしょうね。
コメントありがとうございます。
そうですね。個人のビジョンと組織のビジョンが共鳴しないといけないのだと思います。