【ゲスト:犬飼佳吾先生・鈴木涼美先生】人のつながりの未来:友情・恋愛・権力はどう変わる?

 東京大学では2012年から、統合的な視野と独創的な発想を備え、産学官の各方面でグローバルに活躍するリーダーを育成することを目的としたGCLプロジェクト(ソーシャルICTグローバル・クリエイティブリーダー育成プログラム)を開始した。プロジェクトの一環として行われている講義「グローバル・クリエイティブリーダー講義Ⅱ:Introduction to Management(担当:東京大学大学院情報理工学系研究科客員研究員・岩尾俊兵)」では、普段相互に交流する機会があまりない文系と理系の大学院生、さらには業界の最前線を走るトップランナーとが社会イノベーションに関して様々なテーマで議論し、日本と世界のイノベーションを担う人材を育成することを主目的としている。

 今回はゲストとして行動経済学・実験経済学・実験社会科学の研究者である犬飼佳吾氏と社会学者/作家として活動されている鈴木涼美氏をお迎えし、「人のつながりの未来:先端技術で友情・恋愛・権力はどう変わる?」というテーマで学生と議論した。

※発言者敬称略

 

ゲスト(五十音順):

犬飼佳吾氏(明治学院大学 経済学部 経済学科 准教授)

鈴木涼美氏(社会学者/作家

司会 :岩尾俊兵(明治学院大学 経済学部 国際経営学科 専任講師)

書記 :加藤木綿美(二松学舎大学 国際政治経済学部 国際経営学科 専任講師)

 

 

●テーマ①SNSで友情はどう変わる?

 

自分自身を変えるSNS

犬飼:「友達の要素」と「友人関係」という2つの話があるが、SNSによって「友達」が変わるのか?「友達の関係」が変わると思うか?

 

学生:両方考えられると思うが、私自身は友達の要素は変わらなくて、友人関係が変わると考えている。

 

犬飼:現代ではTwitterやFacebook、LINE、InstagramといったSNSと我々は切り離せなくなってしまっていて、我々の生活を飲み込んでいる。友達関係というのはSNS上で自分を確認しているような作業の気がする。自分のパーソナリティや人格が友達関係の中に埋め込まれていて、そこの中にいるのが本当の自分で、本当の自分というのは本来ないのかもしれないのだが、関係性の中に存在するのが認識できる自分であって、それに合うように自分の人格が作られていく。それが良いか悪いか、幸せかどうかはまた別次元の評価かもしれないが、テクノロジーは我々の友人関係を通じて自分自身の存在そのものを変えてきていると思う。

 

学生:SNSが生活に浸透してきていてそもそもライフスタイルが変わってきているという話は共感が持てる。自分一人の体だが、Twitterでの自分の人格、Instagramでの自分の人格という風にパーソナリティは分裂していると思う。

 

犬飼:私は最近触覚の研究をはじめていて、オンラインとオフラインをどうやってつなぐかを考えている。SNSに関してフィルターバブルの研究にも関心がある。SNSは基本的に「いいね」「いいね」を組み合わせると基本的に親和性の高いもの同士が寄って来る。デバイアシングさせないと違う考え方の人が全然入って来なくなる。凝集性が高く、その中での結束性は強いが、違う人とはものすごく離れてしまう。ただ、閉じこもれる自由もSNSにはあるから、オフラインの身体性の問題がどう絡むのかがキーだと思う。

人間はスペックとしての身体は狩猟採集社会の時代から進化のレベルでは全く変化していないが、近年テクノロジーによって思考自体はどんどん増幅されている。身体性と思考とのズレをどう解消していくのかが面白いところだと思う。かつては都市や地域の設計、街の設計の導線で人々を会わせることができた。それが今はこういった(SNSなどの)プラットフォームになっている。しかしSNSを運営している会社はそれぞれマネタイズしているわけで、政府がやっているわけではない。マネタイズしている企業が本当に福利に寄与する思想や我々が良いと思うものを取り入れられるのかというのは面白い問題だ。

 

オフラインの自分とオンラインの自分

 

鈴木:私は今36歳で、高校の時はまだSNSはほとんど何もなく、大学時代も2ちゃんねるはあったが、友達とつながるようなものはまだなくて、修士課程を修了して25歳で社会人になった途中でFacebookに登録した世代だ。つまり、同い年の友達はSNSがない時代にできた友達が多く、途中からSNSができてSNSでもつながりあった世代である。

SNS以前につながった友達と、SNS以後につながった友達とに私は差を感じている。例えば高校時代・大学時代はオンライン上の自分のふるまいは何もないわけなので、リアルな生身の情報だけで何年もつきあっていた。しかしその後Instagramでもお互いにフォローして、そこでイメージと全く違うことをやっていたら「これ涼美っぽくないよね」と言われることもある。最初からInstagramでつながっていたら「その人格も含めて私なんだな」となるが、昔の友達といざTwitterでつながったら「こんなこと言う子じゃなかったのにな」と思うこともある

「オンライン上で自由に自分の人格を作ることができる」というのは、完全に自由かというとそうではなく、少なくともSNS登場前にできた友達に対しては、リアルの自分が先行するため、オンライン上の自由もある程度制限されることがあると思う。ただSNS登場後に繋がりあった仲間の場合は、最初からリアルとオンライン上両方からその人を知るため、そういう意味で友達を見る眼差しのようなものが変わってきていると思う。

 

岩尾:SNSの影響によって性格のある部分がどんどんエスカレートしていくことがあるのか、あるいは使い分けていくのかという問題について、リアルのつながりが深い人はリアルなつながりこそが行き過ぎた場合の制限になり得るということだろうか?

 

鈴木:SNSネイティブの世代は「自分はSNS上でどういう人格をつくろう、そこからリアルもつくっていこう」みたいことがあるのかもしれないが、私の世代はすでにリアルで出てしまっているものがある。例えば写真を投稿するにしても、すでに何年も前からリアルな顔を知っているわけだから、すごく加工した写真をのせたら「すごい加工してるな」と思われるだけだ。もしかしたら、ネイティブの世代というのは、リアルの顔とオンラインの顔をほぼ同時に知るため、どんなにそこに落差があってもその両方をその人の顔として認識するのかもしれない。少なくとも私の世代は未だにSNSには抵抗があってやっていないという人もいる。そういう人はやはり、元々の友達に見せるのに抵抗があるという人が多い。

 

岩尾:デジタルネイティブの世代はどうか?20代前半の学生に意見を聞きたい。

 

学生:私は今24歳で、中学3年くらいでやっとFacebookができた。しかし、その当時は家のパソコンも回線が遅かったし、学校に行けばそこでインターネットを使うくらいだった。スマートフォンやハードウェアが発達していったことでSNSが身近になって使うようになっていったので、そこまでSNSの前と後みたいな感覚はない。自分の中ではSNSがあることが当たり前になっていて、むしろそうでないと気持ちが悪い。幼馴染などはもう顔も覚えていないし、友人といえばSNSでつながっているという感覚だ。

 

学生:Facebookをやっていると、例えば海外に旅行に行ってホステルに泊まって外国から来た人と友達になり、Facebookでつながることもできる。いつか会うかもわからない人ともSNS上ではつながることが起きるわけだが、「友達と何かしらの弱いつながりで一生つながっていられるかもしれない」という安心感がある一方で、「友達とつながっていないといけない」という強迫観念、失いたくないみたいな思いがそこに出てくる気がする。昔であれば一期一会という言葉があるように、友達関係が希薄になることは普通のことだし、連絡が取れなくなることも普通のことだったが、今はつながれてしまうが故に友情を壊すことに対する恐怖が上がっているのかなと思う。

 

犬飼:SNSは基本的に長期的な関係に組み込むようなシステムだ。自分の記憶自体はエクステンションできないが、外部的な装置を用いることで記憶を拡張することで、長期取引の人間関係を作り出している。さらにFacebookはかなりゲーミフィケーションされている。その究極の形は中国がやっている信用スコアみたいなものだと思う。あれは人間関係の維持自体がゲーム化されていて、その関係をデビエートするようなことをしたら信用スコアが下がる。そのため信用スコアを上げるように善行に励むわけだが、そうなった時に私の人格や主観性、主体性は完全にシステムのコミュニケーションの波に飲み込まれていく。かつて我々が持っていた信頼や、見ず知らずの人と取引してみようとかいうものはどんどんなくなってきていて、非常に長期的な取引でお行儀の良い世界になってきている。本当はオフラインが先でその後にオンラインがあるのだが、実はオンラインの方がオフラインを制約していくような状況ができてきているように思う。

 

学生:対個人に対する友情の強さは質と量だと思う。量は接点=どれだけその人と会話したか。毎朝会うクラスメイトには友情が強くなりやすい。質は相手の内側にどれだけ入り込めた。例えば一緒に悪いことをした、その人が困っていることを助けたといった強い物事を共有できたかというものがあると思う。SNSが生まれたことによって接点がすごく増えたと思う。

例えば私は小学校の友達とはLINEでつながっているがInstagramではつながっていない。そこにおいて、LINEは会話を始めない限りはお互いに何をしているかは見えづらい。一方でInstagramはStoriesで何をしているかが見れるので自動的に接点が増えて、大学の友達は出会ったのは小学校の友達よりも後であるにも関わらず、毎日Storiesで見ているので、私が困ったときに誰に連絡しようかと思ってすぐに連絡できるのはStoriesで見ていたりコメントをし合う人だ。常に会話をしていて、「今日ご飯食べに行った」「そこどこ?」「今度一緒に行こうよ」と会うチャンスも作ることができる。小学校の友達はLINEでしかつながっていないので、グループLINEが動いてはじめて接点が作られる。昔は質は高かったが接点が少なく、リアルにそれは関連していると思う。

私はスウェーデンとケニアに住んでいた経験があるが、ケニアの友達の方が仲が良い。なぜかというとケニアの人たちは挨拶する回数が圧倒的に多いということと、人の迷惑を顧みないからだ。「俺はお前に迷惑かけるけど、俺もお前のことをいつでも助けるぞ」ということが多いので自動的に質の高いつながりになる。一方スウェーデンは日本人と似ていて建前を置くので、迷惑をかけないようにすると質の高い接点はなくなってしまう。質と量両方大事だと思うので、SNSは量が稼げる方が自分にとって強いつながりになっている。

 

オフラインとオンラインの境界線の緩和

 

鈴木:「オンライン上では好きだけどリアルでは嫌い」ということはあるのか?私はオンラインで友人を作るという行為自体あまり経験がないが、より若い世代だと自然にあると思う。小説やアートの場合、作品と作家の人格は区別され、「作品は好きだけどこの人の性格は嫌いだ」ということが日常的にある。InstagramやTwitterを見ていると、その中の自分をいかに作るかということでリアルな自分は製作者で、あがっているものは作品に近いと思う。私からするとなんとなくSNSは自分の情報を載せている、という感覚なので、作品としてそれを愛して製作者の方は愛さない、ということはあまり考えられないのだけど、SNSネイティブの世代はそういう「作品は良いけど本人はダメ」みたいな落差をどれくらい許容しているのか?

 

学生:私は35歳だが、友達はInstagramを使っている人はあまりいなくて、むしろFacebookも閉鎖してリアルで生きていくという人がアメリカ人の友達でも多く、そういう人がアメリカでは増えていると思う。その現象も面白いと思いつつ、最近会ったインド人はInstagramをがんばっていて、綺麗な写真を写すために色々なお店に行っている。Instagram上の自分を作るために自分の行動を変えているというのは面白いと思うが、それでその人の人格が変わっているかというとそうではなく、単にInstagramの綺麗な自分を知ってほしい/生み出したいというためにやっているので、人格が変わるということとInstagramでの人気を勝ち得たいということは違うのではないか。

 

犬飼:生身を先に知っているケースと、生身を後から知っているケースでは違うのかなと思う。やはり人間はあらゆる生体反応がそうだが、ある予測モデルを持っていて、その予測モデルからのズレにものすごく反応する。「冷たいと思って触ったら熱かった」とか、意識しているかしていないか。それは人間関係でも同じことが起こっていて、「おそらくこういう人だろう」と思っている人がいて、それはオフラインかオンラインかどっちが先かわからないが、それに対するズレがものすごく良い方にはたらけば良いけど、違和感にはたらくこともある。ただ、いまオンラインの関係性の領域が占める割合が増えてきていて、オフラインにおける違和感を避けるように動くようになっている。

 

鈴木:「生身だったら友達になっていなかったかもしれないが、Twitterで書いている制作者としてはリスペクトする」みたいなことをもあるのかなと思う。

 

犬飼:その意味では1億総アイドル化している。みんな製作者になって、その部分はそれでいいが、かつてはアイドルがオフラインの状況とオンラインの状況にちゃんとした線引があったはずだが、その境界線が限りなく緩やかになっていると思う。


●テーマ②SNSで恋愛はどう変わる?

 

セグメンテーションによる利便性の向上・情感の低下

 

学生:アメリカの出生数の調査で、2037年にはオフラインで出会ったカップルの子供の数よりもオンラインで出会ったカップルの子供の数が多くなるという予測を示した研究がある。現状でもアメリカではすでに3割近いカップルの出会いのきっかけがマッチングアプリで、その数はどんどん増加している。あと10~15年したらおそらく普通の出会いを超えるだろう。LGBTのカップルではすでに7割近くがオンラインの出会いになっている。

 

犬飼:意思決定という観点から考えた時に、自分の主体性が先にあったうえでツールを使って「こういう人と出会いたい」というのがシステムとしてマッチングできるということは良いことだと思う。逆に言うと、実際に我々がオフラインでやっているのはほとんどがポストディクションで、「出会ったから好きになる」というプロセスかもしれない。そう考えるとマッチングアプリはハッキングの温床だ。年収の高い者同士やイケメンと美女同士といったように、その時に出会わせたい人同士を出会わせてセグメンテーションを作ることがあり得る。システムの思想は、元々人々をミングルさせるようなシステムだったはずで表面上は純恋愛っぽいが、このシステムの上ではある種のヒエラルキーや階層性が逆説的に生まれてきてしまうのかなと思う

 

鈴木:私は以前『R25』の記事を書くために、その当時思いつく限りのマッチングアプリに全て登録してみたが、マッチングアプリでは「既婚者だけどセックスがしたい」とか「セックス目的の人はNG、シリアスな関係を探したい」という風に最初からプロフィールに書いてある。そこで、自分とまったく目的が違う人は最初から排除してしまうというフィルタリングができてしまう。リアルな人は「セックス相手が欲しい」と顔に書いているわけではないので、そこでの探り合いにストレスもあれば面白みもあるが、そこが最初から分かれているのが便利でもあり、複雑さがない感じはする。ただ、マッチングアプリでも「Serious relationship」と書いているが実は「Just for SEX」でピュアそうな女の子を釣るという人もいるので、その中にもバイアスはあるが。

 

犬飼:LGBTの人みたいにマイノリティで、オフラインでは見つけにくいという人が出会うのは良いが、駆け引きの難しさや面白さはどんどんなくなっているかもしれない

 

鈴木:マッチングアプリで19ヶ国50人くらいの人と会った。BumbleとTinderはプライベートでも使ったが、少なくとも当時は真面目な婚活よりは気軽な人が多く、外国の人が多いアプリだった。私はそれまであまり多国籍の人とつきあった経験はなく、台湾と韓国くらいだったので、メキシコ人やスウェーデン人や多国籍の男性がどうなのかと思い会ってみた。そういうことができやすくなった。街でのリアルな自分の出会いを、何人に限定する、というような行為は難しいが、マッチングアプリでは、年収や国籍などを限定して相手を探すことができる。

 

学生:昔は近い関係の中で相手探しをしていたから、自分が所属している集団の中での価値基準で「この人良いかも」みたいなことがあったと思うが、マッチングアプリによってネット上で色々な基準を見ることができるようになり、マジョリティーの基準が分かって、かつそれを選択できてしまうため、その基準から外れている人たちはより淘汰され、マッチングできない存在になっていく悪循環が起きていると思う。

 

 

マッチングアプリによる出会うコストの低減

 

鈴木:私の中ではクラスとかで出会う恋愛はそんなに変わっていないと思うが、合コンが変わったと思う。私は20代前半の頃は週に9回くらい合コンしていたので、マッチングアプリは合コンの超高速版のようだと思う。合コンは自分が出したい情報だけを出して自分のコミュニティとは違う人がランダムに来る。しかし合コンにも多少のフィルタリングはあり、「商社マン」「航空会社」「サッカー選手」というように、「それだったら行く・行かない」というフィルタリングができるので、少し近いと思う。

 

学生:マッチングアプリで出会った人を起点に合コンがセッティングされたりもするので、接点の一つとしてマッチングアプリが使われたりするから、入口の一つなのではないか。

 

犬飼:コストが低いという考え方は面白い。

 

鈴木:合コンに行けば男性は最低でも1回5千円はかかるが、マッチングアプリで4回スワイプするのは無料だ。

 

学生:心理的コストの面でも、アプリを使うと「相手も私のことが多少好きなのではないか」ということがわかる。

 

学生:月額1万円のマッチングアプリとかもあり、そこもセグメント分けされていて、コストを上げることでそれに見合った関係を求めている人しかいないということもある。

 

鈴木:結婚系のマッチングアプリは女性も有料だったりする。

 

 

●テーマ③SNSでコミュニティ・権力はどう変わる?

 

外の目線の極端な流入・内への閉じこもり

 

犬飼:中国はすごいSNS社会だ。中国の人の政権への支持率は非常に高く、Happinessのレベルも非常に高い。良い社会でお行儀が良く、これは権力の究極的な形態だと思う。フィルターバブルの話は動物の研究と似ていて、動物学者が以前「引きこもれる自由も人間や動物にはあるはずだ」と言っていた。自分にとって親和性のある人達からなぜ出ないといけないのか。人間社会では、共有している信念のようなものがあり、それを動かし始めたら権力の元になるかもしれない。我々の社会では「私が信じていることを皆も信じている」と共鳴できることによって何か大きなことを成し遂げたり、人の心を動かすことができる。それをうまい具合にシステムの中に取り込んでいるのが今の社会なのかなと思う。それが政治的に取り込まれる形になるのか、どこかの企業が取り込まれるのか、誰か一人が取り込まれるかわからないが、その辺の関係性は面白いなと思う。

同時に、20世紀後半から出てくる「自分が主体的な自己を持たなければならなければならない」という西洋的な主体性の概念が別次元に存在する。我々が主体性の概念を持ち続けて粒度を高めることによって、「自分は主体的な人間で、近代的な意味で一票を持つ市民として生きる」という社会と、そうではない世界がある、この辺の関係性はこれから数十年面白いと思う。

 

鈴木:かつてあった、外から見えなかった村のポリティカルにダメなことが外に漏れ出ることもある。それも良い面と悪い面があり、例えばAV業界はSNSができるまでは男性にはある程度作品として見えるが、女性は働く人はいても女性向けコンテンツはなかったので、女性の目がその中に向くことがなかったし、中にいる人は外に向けて発信しないので、すごく狭い村だった。そのため、その中の常識やNGがあったわけだが、それが見えるようになったことで、外の価値観をAVの人も持たないとダメだよという風になった。そこには良い面もあれば、この中では上手くまわっていたものが外からの違う価値観を入れることによってまわらなくなってしまうこともある。業界ごとの文化は育ちづらくなった分、一般社会でダメとされていることをどの業界にいる人も共有する社会になったようには思う

雑誌もコミュニティの一つで、私が連載している雑誌『週刊SPA!』では、今年のはじめに「ヤレる女子大生ランキング」という企画が炎上した。昔は『週刊SPA!』について「この記事が良い・悪い」と言うのは読者だけだったが、今は記事もオンラインに載っているし、炎上のきっかけになった告発した女子大生はSPAのことを「エスピーエー」と呼んでいたくらいSPAを読んだことがない人が記事についてNGを出せるようになっている。外の目線が入りやすくなっている面が片方にあって、片方ではどんどん閉じられてフィルターがかかり、自分の見たい現実しか見なくなるという両側面があると思う。

 

犬飼:作家の綿矢りさ氏が、「最近小説をあまり書きたくない」と言っていて、その理由として歌の歌詞も何でもピュア化されているということを挙げていた。汚い世界がどんどん純化されている。Me-too運動もそうだが、かつては灰色の世界があった。灰色の世界がどんどん白か黒かはっきりしていき、世界が「こうでなければならない」という純化されている面がある。そこには良い面も悪い面もあるが。

 

鈴木:閉じていたコミュニティが開いていくという現象と、どんどん極端化したコミュニティができているという現象が同時に起きている。

 

論理的な批判能力の低下と関係性の複雑化

 

犬飼:異なる意見の人同士の話を聞いたときの感受性は随分変わってきている。アメリカで民主党を支持している人はトランプの話なんて全く聞きたくない。「嘘つきだから」と言って、話しさえ聞かない。日本もそういう感じになってきている。

 

鈴木:批判能力や議論する能力は低下しているように感じる。ブロックもしくは叩きになる

 

学生:AIネイティブでもない、生まれてからSNSが普及した人がマジョリティーの社会で現状こうなっているのだから、今後はさらに感受性が高すぎて反対意見を聞かなくなるとか、親が極地集団の人だったらその子どもはベースの考え方が変わってしまうのではないか

 

犬飼:SNSやネット中心の世界の話とブロードキャスティングしているようなタイプのあり方の関係性は面白いと思う。お客さんとしての意見があって、ブロードキャスティングの方はそれを織り込んでコンテンツを作らざるを得なくなる。その時の報道のあり方やマスメディア、1対他のあり方と、他対他のあり方の関係性が今まで以上に相当複雑なのだろう。今は一人の人の意見をうまく炎上させてその人が勝ったということだが、これはうまく操作できれば人の心はある程度ハッキングできてしまう。どういう意見を起こすか、炎上させられるかという技術は使おうと思えば使えるだろう。そういうことが国をも動かし、マスメディアも動かしということになった時に、我々がどういった世の中を選び取っていけるのか。それは選挙などで対抗できる問題なのかは疑問だ。

 

※懇親会は社会システムデザインセンター(SSDC)にて参加者無料で開催いたしました。