【 Once upon a time in 四条河原町 】

 冒頭に恐縮ながら、前週投稿内容をリピートとして、仕事に向き合う際の、また時としてオフ時にも、私が行動するにあたり『信条』とするものが、以下の通りです。
常に自分自身のビジョンを明確にし、(手の届く)目標を設定。
●失敗を恐れず全力で挑戦、我が身を以て体験を重ねる。経験に無駄は無し!!
●成果は大事、但し結果の出ない時にこそ真摯に反省し、次の行動指針に転生させる。(そこで、新たな目標や次に為すべきテーマの芽が顕われるます。)
●自身の評価を最優先に。(外部評価に振り回されず、自分を信じる。)

今回は、その目標設定に繋がる点で、私が初めて自分の将来と向き合う切欠となった昔話です。
『自身の夢』・『ビジョン』・『人生目標』などの言葉を最近は良く耳にしますが、正直に言いますと、私の場合は大学在学中までの漠然とした人生を過ごしており、この類について殆ど考えた記憶がございません。ちなみに小学生時の作文テーマ、『将来なりたいもの』の提出内容は、『社長さんになりたい。』と書いていたそうですが・・・(笑)。

 先ずはチョイの間、タイムマシンで40年前に遡る懐古談にお付き合い下されば・・・・・・・・与太話ですが!

❝Once upon a time in 四条河原町❞ 

私が生まれ育った家族は、父が繊維会社のサラーリマン、母は専業主婦で兄弟4人の6人家族、当時ではごく一般的な家族構成で子沢山な訳ですから当たり前に裕福とは言えませんし、贅沢とも縁はありませんでした。 振り返れば、私自身は色々な側面で多少の我慢は強いられる程度のことで特段に不自由を感じること無く、それなりの生活環境の中で日々楽しく育ったように思えます。 そんな風に齢を重ね、身体は勝手に成長して行くのですが、精神面に関しては至って未成熟のままで、ほぼ疑問を感じずに高校・大学へと進学し、その後は社会に出て自活が始まるのだろうくらいの薄っぺらいイメージを持つぐらいで、将来の夢やビジョンについても頭の片隅に埋もれていたのでしょうが、明確な存在には至らずといった状態で、『日々是、のほほん』と過ごして参りました。

始まりのきっかけは、大学生活も残すところ1年を切る、4回生成りたての桜満開の某日、円山公園敷地内にあります所属ゼミ御用達の料亭?否、料理屋で月例のゼミ・コンパの宴席でのことでした。 
いつもと変わらず馬鹿騒ぎに終始しており、宴たけなわの真っ最中に突然、ゼミ専任教授であるS先生から珍しく真面目?な面持ちで私の話掛けられたのです。「松﨑君、君は将来(恐らく就職を含意するもの)をどう考えてるのかな? 将来、何をしたいと考える?」と。  

注釈》S教授を簡単に紹介します。 
始めに、当教授の専任されるゼミの研究分野は証券経済学(当時では、母校と一ツ橋、神戸大の三校程度にしかありませんでした。)で、当カリキュラムは2回生から卒業までの3年間を費やし取組まれるものです。S教授は、当時40歳台半ばで、産学連携を自ら実践され、上場証券会社2社の株式調査部創設を主導され、また大阪証券経済研究所の理事を務められる他さまざまな学外での活動にも精力的に取り組まれ、『教授」と云うより寧ろ、政治家や実業家タイプ様な方でした。実はそこに惹かれて、当ゼミに参加志願した訳でもありますが。また最低月1のゼミコンパや半期毎のゼミ旅行には漏れずに参加戴き、阿呆な学生連中ども分け隔ての無く親密な関係を築かれる人間性溢れた方でございます。)

正直に言いますと、急に振られた上に、酔っ払った頭で何と切り返したのか定かに在りません。多分、ちゃらけて真面な応答とは程遠いことは確信出来ます。 さりながら、その光景の微かな残像と先生の投げ掛けられた言葉が妙に心に引っ掛かかったままで、何か気になるのです。ですから、その数日後には一人で教授室へ伺い、教授の質問の意図を探るべく直に面談を行いました。
ところがどっこい、教授も余りご記憶に無い様子で、大方、気軽なお声掛けに過ぎかったのでしょう。 まあ二人きりで話す機会はそう多くはありませんので、折角の時間ですから四方山話(雑談ですが)している内に話題はゼミ生の就活へと展開、デジャブ的に先日の投げ掛けと同じことを口にされ、私の将来ビジョンについて問われたのです。要は、教授からすれば私が一番心配の種に思えたのではないでしょうか?? 
2時間ほど話し合いましたが、前述の通り何も考えていない訳ですから応答らしきことがを伝えられる筈も無く、無性に恥ずかしく情けない気持ちで一杯となり、スゴスゴと帰途に着いた次第です。

ここが始まりでした。
下宿部屋に戻り、その晩から考えてみました。私のとっては初めて物事に対し真剣に考えることかもしれません。当然、悩み、没頭して時を忘れてしまいました。 
自分はこれからどう生きて行くのだろう?どんな仕事に就き、どんな生活望むのだろう? 自分は将来どうなりたい、どうなっていたい?・・・・などなど、考え始めたら自分に対する様々な疑問が次から次にと噴き出し、気付いた時には既に朝日が差し込んでいました。

さりとて、そう簡単には結論はが出る訳もありません。
目前の就活問題にしても、既に多くの学友は、「銀行は業績が安定してるわぁ」、「公務員は不況に強いらしいで」、地元の下着メーカーW社だと持てるんちゃうか?」などなど、好き勝手な事を言いつつも、粗方、就職希望先を絞り込んでおり、就活に正対しているのです。引き換え、私ときたら特に興味をそそられる職種も対象企業などについても何も見出せずの状態でした。実のところ、自分はサラリーマンには不向きかも(恐らく、他人に従うことが余り得意で無い性格と父の仕事に対する在り様を子供心に見て感じた事となどの理由からでしょう)と、何となく勝手に思い込んでいた気がします。
では、残された選択肢は??・・・・・と考えますが、自由業(当時は、フリーターという言葉も世間では未だ使われておらず、就職せず者=落伍者的な烙印を押される風潮の時代でした。)もこれと言ったターゲットが有る訳でもなく、得意技能を持っている訳でもない。
無い無い尽くしの挙句の果てに、ついに開き直って出した答えは、全く根拠のない起業でした。
そうなんです。本当は判っていたのですが、或る意味の逃げなのです。私に事業を立ち上げるだけのアイデアやノウハウも皆無です。本屋で企業についての本を読み漁っても、無知という不安が積み重なる一方です。友人に相談しても、「そりゃ無理だ」と声を揃える様にネガティブ・リアクションのオンパレードです。無い知恵をアレコレ絞ったところで答えが出る筈も無く、悶々としながら前期も終了、いよいよ就活解禁まで残すところ僅かです。

❝ Just Do it ! ❞

柄にもなく、初めて本当に悩み、考え続けました。しかし性分なのでしょう。夏休み目前のゼミ・コンパ(またかよ!!!)で教授と顔を会わせた機会に、最後の心の拠り所と思い、教授にぶっちゃけたのです。
S教授は、無謀といえる私の思い付きの考えにも一応の理解を示され(と、その時は思えました。)た上で、いとも簡潔なるアドバイズとアイデアを戴くこととなります。その時の会話を再現してみます。

 教授(以下、S): 「君の気持は何となく判るし、何かそんな予感もしていたよ。」
私(以下、M): 「でも、どうするべきか答えが見つかりません。
(S): 有体に言えば、起業を支援する要素、3つの❝バン”があり、それは~①看板=事業アイデア・特殊技能等、②地盤=家業や知人ネットワーク内の事業インフラ、③鞄(カバン)=事業資金・資本を意味してるんだ。松﨑君の場合は、具体的アイデアも無く、その支援要素が見当たらない状況としては、答えは簡単軽量、『時期尚早』と一刀両断。
だけどその気概は大事なものだから持ち続けなさい。私から助言するとすれば、先ずは自分のやりたい事を確立することから始め、将来にそのチャンスを待つこと、それまでの間に社会の成り立ちや事業に求められる術を学び、身に着けることがじ大事なんじゃないんか!?」

(M): 「何から手を付良いかも解かりません。具体的にはどうすれば?」 (これはもう幼値稚園児レベルですね。)
(S): 「そうだな。先ずは資本社会や世の中の仕組み実際のビジネスの仕組みを理解し、必要 なものを身に着けることかな。例えば、証券会社の様な資本市場と密接した業界での営業体験を通し、実務の習得をする。それも大手証券会社ならば、早い内から最も多面的に色々な経験をさせて貰えると思う。野村なんて最高の学び舎じゃないかなぁ」と。

以上がその時の事実に基づいた会話内容です。途中から、ちょっと教授サイドの意向が加わった様な気もしないでは無いのでが・・・。ご存じかも知れませんが、当時の証券業は、学生の就職志望ランキングでも不人気上位で、忌み嫌われ3業種ともいわれる、ましてや野村證券は、業界内では、『ノルマ証券』や、当社社章デザインから由来しての『ヘトヘト証券』とか呼ばれ、揶揄されております。どうしたものかと一瞬の躊躇でしたが、そうです。私は悩める立場にないのです。 自分が将来、起業したいと初めて『自分の目標』を掲げたのです。あとは教授の助言を天啓と信じる事のみ。 且つ性格上、悩むことが苦手?で直ぐ思い切るタイプも手伝い、即決しました。「先ず、野村に入ってやろう!!」
決心後は雲間も晴れ、行動有るのみです。 教授の伝手を頼りに野村證券在籍の先輩を探し訪ね、話をお聴きし、自分の決意(ここは入社に対する熱意)をストレートにお伝えしました。その後はトントン拍子に入社内定となりました。
これからは、自分の決断を信じ、目標に向かって邁進するのみ。
30歳を区切りと考え、それまでは石に噛り付いても野村に軸足を置き、学べるものは全て吸収、および他では得難い経験を積ませて貰い、自分の精神的財産を築きながら自分に課した真(裏)のミッション(当然、表は野村社員としての責務です)として入社を決意した訳ですから。しかも給料も戴けるのですから、こんな旨い話はありません。

図らずも、この決断が私の就業沿革の起点となりました。

後日談ですが、入社2~3年目に(既にサンドバック状態でしたが)久しぶりに実家へ帰省した折に親から聞いたことです。
入社を控えた年明けの或る日、教授が京都から福岡の私の実家を訪れ、両親に申された言葉・・・・・「お宅の息子さんが証券会社へ就職を決意されましたが、親御さんとしてこれで宜しいのでしょうか?ご承知、ご納得されておられますか?」と。この話を聞いて一瞬、「エッ!!!!!! チョッと待てよ。」と思いましたが、良く思えば、教授も提言してみたものの、本当そうなると思っていなかったかも知れないですし、教授なりにご心配下さったのでしょう。
兎にも角にも、全ては『自らの決断』で選んだ道です。教授にはヒントを授けて戴き、ただただ感謝するだけの話なのです。

また、入社3年目にはで入社同期が半分となり、想像以上のハード&バイオレント環境の下、9年間在籍出来ました理由はただ一つ、『自己目標の為のミッションを果たす思い』のみで、これが私を支えてくれたと断言できます。そしてこんな就業環境だからこその様々の経験は、素晴らしい教材(反面教師的にも)と言え、その後の自分の仕事人生において進むべき方向やスタンスの確立で重要な指針の役割を担っているのです。として、その昔に、S教授が言われた通にり、私の貴重な学び舎としての存在であったのだとの思いです。

以上、これが私の人生の起点と言える一幕でした。そして、私の身体に強く残る教えとして、
『自分なりの目標を掲げ、立ち向かって行けば、次に進むべき道は開かれる。』
『迷い込んだ場合は、周囲からの助言に耳を傾ける。』

また老婆心ながら、もしご自身の進路に迷わる若者の皆様に一言、『自身の将来を真剣に考える時間を設け、何かの答えに辿り着く限界まで考え抜く』ことにトライしてみて下さい。皆様それぞれの思われる方法で構いません。ひょってすると夢の実現への一歩を踏み出す切欠となるかも知れません!!

Epilogue

 大相撲の放映をたまに見ますが、勝利力士インタビューでよく出るフレーズとして、今場所の目標は?その応答として力士が返す言葉、「一番、一番を自分の相撲が取れるよう全力を出し切り頑張るだけです。ごっつぁんです。」と。
また、一昨日の晩のこと、たまたまNHK放映番組の『クローズアップ現代』を見ましたら、ジャパネット創業者の高田明氏がゲスト出演されており、冒頭に発言されたコメントです。
「今日出来る事をやる事が大切で、やれば明日、未来が変わります。今日を大事に生きて下さい。」と。
上記の2例はその言葉の通りに尤も至極で聞き流し易いのですが、私の常に心懸けている大切なキー・センテンスと思うのです。。

 最後に一言。
切欠さえ掴めば、あとは否応なく次の取り組みに繫がり、考えるべき問題が自動的に醸成されるものかもしれません。遠くを見過ぎず、見えない不安に慄く前に、現在を大切に、自分が置かれている状況、自分の出来る事、また為すべき事を真剣に捉まえ、あとは全精力をもって取り組む。There is only it !それしかありません)

自分で書きながら、日々、一日の行動と心の持ち様が如何に大切なものかを再認識させられる思いでございます。来週もお付き合い下されば幸甚です。
とぅ~び~こんてぃにゅうど

Qwintet life
16件
松下 耕三
2020.01.24

若手社員にとって力になるお話しです。貴重な人生経験をありがとうございます!

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