実録 『 育ての親 』 野〇證券

第1章  私のビジネスマン幼少期

当テーマを投稿するに辺り思いますコトは、これから就職を迎えられる、または入社してそう年月を経過されておられない若年層ビジネスマンの皆様に、掲題会社で過ごし、育てられました私的な実体験を叩き台としまして、現代に投影しまして現代社会にも当て嵌まる共通概念や不変の理、更には改善されるべき問題点などを拾い上げて戴きたく、もしも日々の仕事に追われ、精も魂も尽き果て隘路に入り込んだ様な状況の方に目に留めて戴けたなら、この拙文が貴方の新たな方向性を見出すトリガーともなれば幸いに存じます。

これから、私の社会人幼年期を過ごしました掲題の会社での事柄を実写版でお伝えすると共に、より情景が見え易くしたい思いにてその時代背景や就業における一般的慣習や当社に纏わる余談も交えつつ連載しようと思います。但し、しつこいようですが前稿でも前置きしました通り、当内容は事実に基づき描写をしているとは云えども、40年も昔にタイムスリップした、かなりの時代錯誤的な社会性と当会社ならではの企業風土・文化が綯い交ぜに絡み合い醸成されたもので、当然に歴史上のタイム・ギャップや狭量な範疇における事実に過ぎない訳ですから、極めて特殊なケースの懐古録である点を重々ご承知賜ります様、お願い申し上げます。

「そんな時代があったんだ!」とか、「この会社にそんな過去の一面があったとは?」と素直な感想を抱かれることでしょうね。

皆様の想像が膨らみ易くなり、私のメッセージも届くかもとの思いから当時の世情概況サマリーを少々、そして話の合間合間に当社に係るミニ談話を差し込んでいければと云う事で。 

早速ですが・・・・・・・・
私の社会人幼年期、時は1980年代に入りかけの当時の時代背景や世情、並びに当該会社の沿革や業界について、軽~く触れておきまたいと思います。 

その当時、前回の東京オリンピックを成功させ、戦後の復興を世界中に知らしめ、その余勢を駆って、国力のモーメンタムにも一段と拍車が掛かり、まさに高度成長期の爛熟期へと国内産業は企業個々の成長力が目覚ましく、日増しに体力強化と自立心を相乗的に呼び起こす、まさに活力に溢れたエネルギッシュな時代でした。(現在の環境に置かれている若者の皆様には理解するどころか、余り参考にもならないでしょうが、親御さんから聴いた(聴いてみる)断片的な話でも思い出し、出来るだけイメージを膨らませてみてください!!) 

 終戦後の国内経済復興、企業育成にとって生命線となる血液循環機能として重要な役割を担い、産業復興に大きな貢献を果たした興長銀や金融機関主導の『間接金融』の時代から、自己資本の増強を図り、個々の自立経営を目指すための手段となる『直接金融』時代へと移行する最中に在り、日本はその目覚ましい経済成長力と高い生産技術力を誇示しつつ、数年後には、❝Japan as No.1❞という世界中から熱い賞賛と注目を浴び、海外輸出量も飛躍的に伸び、国内への外貨流入と潤沢なるマネーサプライ政策などにより、(その後の資産インフレを呼び起してしまいますが、)世界経済を席巻し始めた、まさにバブル経済到来の夜明け前といった時代とも云えるのでしょうか。まだ資産インフレの兆候はうっすらとした程度でありましたが、その後僅か10年足らずで国内経済はピークアウト、世に云う、❝バブル崩壊❞ から ❝失われた20年❞ という負の連鎖から厳しい経済環境へと転がり落ちてしまうのです・・・・・。

 私の戦いのバイタルキーとなります、『証券市場』・『株式投資』・『資産運用』などという言葉は現在ほどの市民権は得られておらず、一般の人々にも余り認知もされず、関心も示されない業態で、しかも一部の事業経営者や資本家、仕手筋(プロの投機家) 博打愛好家の富裕層などのチョッピリ胡散臭そうな又はマニアックな傾向の人種が集い、そして東京証券取引所や大半の証券会社本部が集う日本橋兜町一帯は❝シマ❞と呼ばれ、外界(世間)とは見えない壁によって一線を画され、秘密めいた閉鎖的エリアとして、独特の雰囲気や文化を醸し出す業界であった様に憶えています。

 当時の日経ダウ平均株価水準は、未だ4桁レベルの6,000円~8,000円近辺を推移しており、『38,957円』というバブル経済最盛期に記録したダウ史上最高値へ向かって、資本エネルギーと投資家センチメントを熟成しつつひたすらに溜め込む時期であったのでしょう。このようなフェーズにおいて、国内証券業界を牽引する四大証券、またそのリーディングカンパニーとして業界を跋扈する傍らで、世界のユニバーサル・バンクを標榜しており、ノムラ曰く、「我々の競合相手は国内金融機関や同業他社に非ず、最大のコンペティターは❝ドイチェバンク❞だと豪語するほどの勢いを示していたことは今でも鮮明に記憶するところです。

時代を先取りするパイオニア精神と利に敏いところは伝統的に当時から根付いており、直接金融時代の追い風を受け、国内の金融改革やグローバリゼーションを堂々と事業戦略のアジェンダとして掲げ、常に展開を先取りするというパイオニア精神の企業戦士。 じゃんじゃじゃああ~~ん!! これこそが、愛して💛止まない??、当時の❝野村証券❞の表からのイメージです。

野村證券の沿革: 
大正時代に野村徳七翁が大阪の地に大阪野村銀行を設立(大和銀行の前身で、現りそな銀行)。その証券部が独立し、野村財閥の中核組織として1925年に創立。証券業務の将来性を見越し、いち早く投資顧問業(現・野村アセットマネジメント)や経済調査シンクタンク(野村総合研究所)などの組織を編成し、国内営業の地盤開発・強化を図り、また国内資本・証券市場の発展に尽力すると共にユニバーサルバンクを志向し証券業務の国際化を率先して推進し、世界の金融機関に伍する地位を確立、今日に至る。

 

 ミニ談話①~  社是』
創業当初から受け継がれる、徳七翁の言葉の引用による社是とは、『顧客と共に』・・・・・素晴らしい言葉ですネ!!
入社以来、仕事を行う上での私にはその言葉に余り実感する機会もなく、どちらかというと絵空事のような存在でした。 そしてお客様と向かい合い様々な経験を重ねるの連れ、自己流で辿り着いた解釈が、・・・・どんなにご迷惑(短直にいえば、損失を与えること)をお掛けしても、お客様から決して逃げず、離れず、寄り添い続ける(ウェッ! 気持ち悪い!と思うでしょうネ。)との私なりの解釈に至りました。
そうなんです!! 証券業務、とりわけ株式営業は、その結果が顧客の損得という形で如実に顕われ易く、お金とは怖いモノで、損得が絡むと人間性の裏側が突如として顕れ見えて参ります。 大体はこちらに非がありますが、無理な営業を行えば必ずと言ってよいほど負の結果に繫がります。ですが、ご迷惑をかけてしまってからが証券マンとしての勝負どころ(真骨頂)で、嘘つき呼ばわりされようが、詐欺師扱いを受け罵声を浴びようが、怒り昂じて取引関係を遮断されようが、何よりも大事なコトとして、お客様から逃げてはならないということなのです。それが遠回りでも、真の信頼関係を築くことに繫がるケースが多い、まさに経験を通しての実感です。 
失敗は信頼関係構築の素❞ これが私なりの、社是 ❝顧客と共に❞ の解釈となります。

ミニ談話②~ 襟バッジ(社章)のデザイン』 ご存じですか? 
蔦の葉を背景に、山(ヘ)ふたつが一部重なって横に並び、その下に徳七翁の頭文字であるカタカナの‟ト“を模したもの(イラスト参照)

ですが、当業界内では、そのデザインをモジって ❝ヘトヘト証券❞ という有難くない蔑称に拠り揶揄されておりました。 社員の大半は、飲み屋や飯屋に入る際はこの襟章を逆さまにハメ直すことが日常茶飯事で、喫茶店でサボるときも同じです。 ですから、よく紛失騒ぎが勃発します。襟章は装着必須で必ずチェックされますので、1回目は始末書を条件に再発行が受けれますが、2度目は絶対にあり得ず、即、解雇という不文律的脅しを受けていました為、残る道は、真面目な社員を巻き込んで社章を買い取る位しか方法はありません。 確か、裏に社員ID番号が刻印されていた気もしますが!?

ミニ談話③~  当時の採用基準に関する私的考察
同期入社は、大卒160余名とハイスクール卒(当社では何故か高卒と言いません。4年間は総務や内勤業務に配属後、5年次に証券外務試験を受け、自己希望をすれば営業に転属します。)が20数名と併せて約190名です。(記憶の限りですが・・・) 出身校別では早・慶が併せて50名超と断突シェアを占め、続いて旧帝大系国立大学・神戸・一橋・大阪市立・関西私学2校などが各5~10名で続き、以上で全体の約2/3を占め、やや常連大学の傾向が強く見えましょうが、注目すべきは点は残るグループにあります。 全国津々浦々の中小サイズ(失礼!、比較的少人数の学校)の国公立大からの採用が目立ちます。一例を挙げますと関西の国立S大学は有数の大手商社を輩出した土地柄に在り、恐らく商売上手のDNAが引き継がれているのか、学生の少ない人数の中から例年数名の採用を行っており、社内を俯瞰して見ても地方大学出身の方々の存在感は際立っていた様に記憶しています。

最近でこそ大学生就職人気ランキングでノムラがトップ10にランクインしているなど耳にしますが、当時は不人気業種の代表格ですから、どんなに立派な出身校であろうがあるまいが、決して学業優秀・品行方正の観点から採用されたとは思えません。(あくまでも私見です。)目立つ点を挙げるとすれば、体育会やESSクラブの経験者が比較多かったイメージくらいです。

後に。人事部採用担当者から聞いた話です。 「メジャーな大学の成績が並み若しくはそれ以下の学生や地方大学生さんは、農家で例えれば‟次男坊“に例えられ、初めから生活の糧は自分で掴みに行かねばならないという意識が強く、人参をぶら下げると馬車馬の如く真っすぐに突っ走る傾向を評価しています」と、いうことでした。

確かに当社の営業ソーンにおける評価基準は数字(実績)につきるのです。数字(=営業成績=売上)が人格というフレーズを在籍当時に何度耳にしたでしょうか。このロジックを言い切る諸先輩が何と多いことか!
理屈は簡単な話で、″営業成績を上げた者は、比例しての営業努力と心身の苦労が裏付けられた様々な経験を重ね、牽いては人格形成にも役立っている筈で、万人に評価されるに値する“ といった理屈実しやかに存在し、学歴や人間性に拘わらず力を発揮した者、結果を出した者が評価を受けるべきで、社内要職へと駆け上がるのが当たり前という風潮がびっしりと隅々に顕れていたのです。確かに、ハイスクール出身の営業猛者が何人も役員に輩出されています。 
5年次ハイスクール組が、何故に辛い、苦しい、自由も剥奪されるような営業職にこぞって転属希望を出すのか?至ってショート&シンプルアンサーですが、当社のヒエアルキーにおいて国内営業は、海外関連や企画、管理部門などエリート感漂う職種よりも遥かに高いステータスを誇示する会社だからなのです。 逆に、営業部門から脱落すれば、それはもう落伍者と見做される位の風潮があり、とにかく営業を第一義とし、成績を上げる(稼ぐ)という一言に社員の存在価値が集約されていると言っても良い位に、徹底した営業ドリブンの会社でありました。 
こんな企業カルチャーに適応する人材をリクルーティングする訳ですから、当社人事部の学生応募者に対する目の付け所とすれば、世間一般論とは一味も二味も異なるモノだったのでしょう。

 いよいよ、入社式も恙なく終わり、新人社員は配属先が決まり赴任いたします。当時の新人配属パターンは、一部例外を除き、ほぼ全員が全国拠点の営業部門にばら撒かれての配属となり、且つ全員がその地の独身寮での生活が始まるのです。 実は、この入社時の配属先に各々の将来もかかってるという意味で、既に大事な❝運❞が試されていることを今更に実感しているのです。

突然に Excuse me!!  
漸く開幕と思ったのですが、・・・・・外堀の話ばかりで、そろそろ飽きてくる頃でしょうし、実は当稿は先週末に出す予定のものということもあって、一旦アップさせて戴きます。
この続きは今週末に。

Qwintet life
16件
松下 耕三
2020.02.18

松崎さん、このまま本に出来そうなくらい、読んでいるうちに物語に入り込んでいきそうでした!続きを楽しみにしております。

松﨑 誠
2020.02.18

コメントありがとうございます。次回はディープな話で、どこまで出すものか悩み処です。

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