私の中に多くの私がいて、そして私自身の中の多様性に満ちた私の中から私の中の主がいずれかの自分を選びとっている。
主は意識の上にいる私よりも私を深く知っている。無意識にアクセスすることが出来ない私と違って主は無意識まで潜り込んで私よりも速く、私の意志を超えて私の行動を選択している。
私の中にいる主を私の魂が望む私として存在させるには、念力のような強い意志で信念を主に叩き込む必要がある。無意識は私にとっては魔界空間だから、無意識にまで潜り込んだ主を信念に従わせるには念力が必要なのだ。
ただそうしていくたびに、主は信念に従って無意識の領域でも行動を選ぶようになってくる。私も主も魂を同じくし、魂で繋がった存在なのだ。そうして我々は魂に従って生きることが出来るのだろう。
今朝、娘を幼稚園に送った後の帰り道、中学校近くの公民館の前で座っている中学生がいた。目が悪い自分だが、何か重苦しい空気を感じて近づくと表情に苦悩が見えた。
どうした?大丈夫か?と尋ねると、疲れて休んでいるという。朝から疲れるってことはなかろうと聞くと、家でいろいろあったという。
そこから少し話を聞いたが、家でも学校でもうまくいってないようだ。彼からはかなりのSOSが放たれていた。
少しすると先生が一人やってきた。その後二人の先生が加わり3人になった。私は先生達に偉そうに、大人達が強さを持って助けてやらなければならない、というようなことを話し、先生方と歩き始めた彼の姿を見ながら家路についた。
その後、心配が拭えない私は仕事の合間を縫って学校に電話をし状況を聞いた。どうやらなかなか難しい状況のようだ。どこにも居場所がないならば、私の家でしばらく引き取っても良いと校長先生に伝えて電話を切った。
その後、ふと考えた。今日、たまたまそんな出来事に遭遇したのか?いや、実はもっと身近でこうしたことに遭遇しているのかも知れないと。私の主が見て見ぬふりをする自分を選んでいたのではないかと。
信念を貫いて、心の底から納得できる自分を選び生きるとは、私の中にいる私の中の主に信念を刻まなければ、お飾りの志や信念として生きてしまう。念力を込めて、信念を刻みながら心の底から納得できる自分を選んでこそ、魂は輝けるのだと。
私の主は、見て見ぬふりをする自分を選んでいました。そして、なぜあの時それを選んだのか・・・と思い返すことがいかに多いことか。
行動や発言に対する照れではなく、拒否されることに傷付くのを恐れているのか。
自分の行動に、魂の声に耳をふさぎ後悔する生き方を止めなければ。強く思うことができました。ありがとうございました。
篠田さんは、ストイックなのと、傷ついてきた過去がそのように思わせるのかも知れませんが、強い魂を持たれた立派な方です。お互いに最善の自分を貫いていくだけなのかと思います。
お互い、今の自分を超えていけるように頑張りましょう!
ありがとうございます。
自分への挑戦を続けて行きます。
ちょうど先日学生団体のディスカッションに参加した際、児童虐待に関して考える機会をいただきました。
今回の記事を読んでいて、私の中にも見てみないふりをしているもう一人の自分がいて、気づかないふりをしているのかもしれない、と考えさせられました。もっと研ぎ澄まさなくては目の前の人にすら手を差し伸べることもできない、と感じました。自分の中の信念をもっと高ぶらせて、もっと敏感にしていきます。
ありがとうございます。
自分を超えていくというのは、容易でもあり困難でもある、というところでしょう。日々精進ですね。
お疲れ様です。又、夜分に大変恐れ入ります。
"納得出来る自分はどういう事か"と考えてみますと
沢山の方々への「感謝」やお相手に対する「思いやり」を
忘れずに生きていく事だと思います。
いつも感謝や思いやりを持たれているように感じます。私もその二つがいつも足りないなぁと思いますね。
非常に考えさせられる内容でした。
第一に、松下さんのその行動力に大変驚かされます。
ただ「信念を貫いて、心の底から納得できる自分」という観点でいえば、松下さんにとってはごく自然なのかな、とも思え・・・
自分だったらそのような行動は取れないだろうが、「人を救う」というような観点、いやそれ以前に、気になることに正しく向き合わなければならない、という点では、そうでなければならない、と思えます。
今はただひたすらに、「何かを避ける人生を選んではいないか」と、自問自答をしています。
まともなコメントが書けずすみません。
自分を考え直す良い機会をいただいたと思います、ありがとうございます。
お互い、素直に日々精進ですね。