昨日、庭に咲いた花の中に座るカエルがいました。子供達も神様みたいと言って喜んでいました。私にもそのお姿は、神々しい存在に見えました。
神宿る草花、生き物、全ての存在。私達は、神々に彩られた世界を生きています。
この宇宙、この世の中が仮に幻想であったとしても、仮想的であったとしてすらも、私達が存在することに疑いの余地はありません。
その存在する、存在できるという事は、あらゆる存在にとって何よりも重要なことになります。
この宇宙は生まれ、1つの宇宙として活動し、死んでいきます。1つの宇宙としての存在があり、その存在の終焉があります。恐らくは、私の推測では、この宇宙内部のほんの欠片を眺める人類には、法則性から想像するしかありませんが、この一つの宇宙も無限に存在する生まれては死んでいく宇宙達と関係しながら存在しているでしょう。
太陽も一つの天体として生まれ、活動し、死んでいきます。太陽の存在も様々な存在の中から生まれ、関係しながら存在し、死んでいきます。地球も様々な存在の中から生まれ、関係しながら存在し、死んでいきます。月も同じくです。地球という星の寄生虫のような地球生命も、この宇宙、天体と地球の存在の上に生まれ、様々な存在と相互に関係しながら存在し、死んでいきます。
これは一つの普遍的な真理です。恐らく他の宇宙の性質は、この宇宙の性質と違いがあったとしても、この存在についての真理は同じく横たわっているでしょう。
随分と哲学的な話しをしてしまいましたが、私達が存在することを願い、存在することに感慨深いのは、この真理から来ていると、私は考えています。生命の性質、ヒトの性質の中でも根源的な《存在しようとする性質》、《種を存在し続けようとする性質》は、ここから与えられた普遍の真理だという事です。
そしてこの一つの宇宙でさえそうであるように、私達ヒトがそうであるように、存在は常に一つで成り立っているわけではなく、相互作用の中で存在し得るという真理があります。
そこから導き出されるのは、人は存在し続けようとする普遍の本能を宿している、そのヒトという種が存在し続けようとする普遍の性質を宿している、そしてあらゆる存在と相互作用する中で存在し得るという真理を宿しているということです。
つまり人がより良く生きるとは、人類という種が人類同士においても、あらゆる他の存在との関わりにおいても、より存在し得る相互関係を構築して生きる、ということなのです。それが、この世の中に横たわる性質に根差した生き方なのです。
私達が存在し得るのは、他の存在との相互依存関係にある、それは言い換えれば、あらゆる存在が私達を生かす神という事であり、あらゆる存在に神が宿るという事です。
私は神なき時代という表現を使ってきました。あらゆる存在が神であるということが失われてしまった人々の思想の中に、私達が存在し得るのは、私達存在するもの全てが神の子であるという真理を取り戻さなければならないと考えるからです。それが人がより良く生きる原点にあり、より良く存在し得る原則であるからです。
私達の中には神が宿っている。私達がその存在を有り難いものとして感じられる神が宿っている、命を大切にしようとする神が宿っている。そんなことが人類の歴史が見出してきた叡智が示唆するこの世の中の基本的性質なのだと思います。
心の底にある願いは何か?心の底から納得できる自分とは何か?誰もが心の底を覗く勇気を持てば、そこに私達に宿る神が存在している。その心の底にある願いに従って生きればより良く生きられる。私達は神の子なのだから。
その関係性のことを、仏教では「縁」と表現するのでしょう。なんといか、心に爽やかな風が吹きました。ありがとうございます。
「縁」という言葉を頂き、ありがとうございます!縁という言葉がスッと入ってきて、私にも爽やかな風が届きました。
見えている世界は表象(センス・データ、イメージ)であり、表象を生み出しているのは生きんとせん意志であると説いた19世紀最大の哲学者ショーペンハウアーに通じるものを感じます。
意志の相互作用があるから、食べ物を奪い合い、異性を奪い合い、短期では不幸も生まれると。一方で、この相互作用こそが生きているということで、長期的な幸福も美もここから生まれると。この相互作用が悲劇にも喜劇にもなり、世の中の芸術は絵であれ小説であれ、この悲喜劇を描いているのだと、ショーペンハウアーは考察します。
昔の誰が言ったからどうこうみたいな思考停止はよくありませんが、ショーペンハウアーを読んだときに受けた感銘と同じものを感じました。
19世紀最大の哲学者と並べて頂き恐縮ですが、岩尾さんのような理解者、共感者が存在することに、心から幸運を感じます。
「表象を生み出しているのは生きんとせん意志である」というところは量子力学を連想させますね。意志というものは不思議なものだとつくづく思います。